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2007年2月 9日 (金)

映画「鬼が来た!」

鬼が来た!

2000年中国
監督:チアン・ウェン(姜文)
キャスト:
マー・ターサン…チアン・ウェン(姜文)
花屋小三郎…香川照之
ユィアル…チアン・ホンポー(姜鴻波)
通訳トン・ハンチェン…ユエン・ティン(袁丁)
酒塚猪吉…沢田謙也
野々村耕二…宮路佳具

 チアン・ウェンが、
「いままでの中国映画は日本兵士を正確に描いていない。」
と猛勉強して撮っただけあって、ここで描かれている日本の軍人の姿は、自分の考えているのと大差ない。
 中国人が、これくらいわかっているんなら歴史認識の差なんてないじゃん、と思っていたが、この映画、ひょっとして中国では上映されていないのね…。

 1945年の旧正月の直前。
 日本軍占領下の海辺の村に、「私」と名乗る謎の人物が麻袋に詰め込まれた日本軍の兵士・花屋と通訳のトンをマーの家に置き去りにした事から始まる。

 困ったマーは、村の長老らみんなに相談する。
「日本人など埋めてしまえ!」
などと過激なことを言う者もいるが、マーは人を殺すのなんていやだから、あれこれ理屈を並べて、とにもかくにもしかるべき人が引き取りに来るまで世話をすることにする。
 日本軍の占領下で、毎日ブラスバンドを引き連れて海軍の野々村隊長が村を通過して行くとはいっても、野々村隊長は村の子供にアメをやったりして、占領軍としては温厚な部類。村もごく普通の日常が営まれている。

 それに対して花屋は、マーや村人を怒らせて自分を殺すようしむけるが、死にたくない通訳のトンが罵倒や都合の悪そうな言葉を歪めて通訳してなんとか逃がしてもらおうとする(これが後々効いてくる)。
 花屋は今までどっぷり兵士としての常識に漬かっていたから、捕虜となった事を恥じ、
「戦場で死してこそ武士。」
なんて言ってるが、あんた武士じゃないじゃん。農家のせがれじゃん。
 だから、あれこれの事件がありながらも半年経つと戦場での感覚も薄らぎ、同じ農民である村人と理解し合うようになる。

 その結果、穀物と引き替えに釈放してもらって駐屯所に帰ることになる。
 しかし、花屋が戦場の常識から解放されたとしても、帰った先の軍隊ではそうではない。花屋が尊敬していて、彼の偶像でもある同じ村出身の酒塚隊長は、たまたま読んでいた紙(実は終戦の詔勅)をポケットにしまって花屋を迎えるが、脱走兵扱いである。
 それでも酒塚は、花屋が村人と取り交わした証文を見て、
「日本人は約束を守る。」
と、約束通り村に穀物を運ぶことになるのだが…。

 前半、はらはらするようなヤバイ局面をその場しのぎの策で何とか切り抜けていくが、そこでたまりにたまった矛盾が一気に吹き出す後半は、声を出す暇もないほどの急展開。

 酒塚が海軍の野々村隊も誘って持ち込んだ食料で、村人と宴会になっても、めでたしめでたしでは終わりそうもない。だいたいその場にマーがいないのもまずい。
 村人が馴れ馴れしく酒塚に触って、
「怖いから、銃を出したんだろ?」
となんて言ってるのを見て、
「汚ねぇ手でおいらの偶像(アイドル)に触るんじゃねぇ!」
とばかりに花屋がキレて、村人を斬り殺した事が皮切りになり、村人皆殺しの幕が開くのだった。
 裏切られた、面子を潰された、と感じた日本人がああいう行動に出るのは良く理解できる。今現在起こる殺人事件等々だってそんなもんだろう。

 占領下でもどうにかして生きようといろいろ工夫しても、かえって大きな不幸を呼び込んでしまうようなどうにもならない閉塞感がたまらない。
 花屋にしろ村人にしろ、その場でよりよい方法として選んだ選択が裏目裏目に出て虐殺になるのだが、誰が悪かったとも言えない。誰もが理不尽な不幸を小さな犠牲で済まそうと努力したのに。後知恵で最初に埋めておけば…、とは言えるが、平時に暮らす常識人がいきなり人を殺すなんてできはしない。

参考文献:

香川照之に「中国映画を撮るとは?」と良く話を聞いていったにもかかわらず、中井貴一も監督の皇帝ぶりに切れかかってるじゃん。あれは、役になりきらせるためのチアン・ウェンの策略というより、むしろ単なるチャイナ・スタンダートなんじゃないの?(笑) どうよ?どうよ?

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