映画「単騎、千里を走る。」
2004年中国
監督:チャン・イーモウ
キャスト:
高田剛一…高倉 健
高田理恵…寺島 忍
高田剛一の息子、健一(声:中井貴一)は雲南の仮面劇について研究しているという設定だけれども、具体的には出ていないので勝手に想像するに、たぶん、儺(おにやらい)のことではないかと。
もともとは、目をカッと見開き、牙を(場合によっては角も)生やした憤怒の形相の神々が目に見えない災厄を追い払う行事だったという。
恐ろしい形相や爆竹などの大きな音で悪霊を驚かして追い払うのだが、実際的には、仮面をかぶることによって人間が神を演じる(といっても、シャマンのようにトランスに入るわけではないところが北方起源のものとは違うのかな?という印象を受ける)。
日本で言えばなまはげがその原型に近い。仏教が入ってきたために不動明王のような仏教の護法神がそれらの神々の役割をするようになり、恐ろしい形相の故に、かつて神だったものは鬼となって追われる立場に転落した。
李家村で演じられる芝居は、儺の儀式が、仮面を付けて
目に見えないものを追い払う単純なストーリィを演じた事から、
↓
やがて神に捧げる踊りや、より複雑な筋立ての劇に変化し、
↓
神だけでなく人が見ても楽しめる踊り、劇に発展、
↓
人が楽しむための演劇になったもの。
なのではないか、と想像することができる。
雲南には、イ族のツォタイジのように仮面の神がそのまま現れるより原型に近いと考えられるものから、「単騎、千里を走る。」や「楊家将」のような普通の芝居を演じる仮面劇まで様々なバリエーションがあるから、健一はそういう仮面劇のいろいろを研究していたのかもしれない。そうだとすると、日本とのつながりを考える上で最も重要なのは「仮面を付ける」というカタチなのであって、この映画の中で健一が言っているように「『単騎、千里を走る。』自体はそれほど重要でない」。
高田は、理恵からもらったVTRに録画されていたテレビ番組の中で健一が、李加民が演じる「単騎、千里を走る。」を来年撮りに来る、と約束しているのを見て発作的に麗江に飛んでしまう。健一は論文を十数編発表しているというから、高田がそれを読んでいたら、演目自体はそれほど重要でないということはわかったはずだ。
息子の方が拒否していると高田は思い込んでいたのだろうが、彼は息子のやっていることに興味を持って、理解しようとしていたのだろうか。
また、通訳の二人だけでなく、頭の固そうな役人だなぁ、と見えた人でも、息子の病気のことを説明してお願いしたらみんな助けてくれた。
妻が死んだとき、彼は何も言わずに漁村に帰ってしまったそうだが、言葉も習慣も違う雲南の人たちでも話せば理解してくれるのだから、どうせ話してもわからないと決めつけずにあのとき、ちゃんと話すべきではなかったのだろうか。
更に、
「息子に会いたくて会いたくて歌えないよお。」
と泣く李加民のために、息子の楊楊を探し出す。しかし、楊楊は途中で逃げてしまう。高田も追いかけて二人で迷子になってしまったために、村人やら警察やら繰り出しての大騒ぎになるが、楊楊は李加民の息子だから父親に会いたいに違いない、と大人たちがきめつけ、本人の気持ちは全然確かめていなかった。彼はまだ実の父と会う心の準備ができていなかったのだ。
高田も息子はきっとこう思っているに違いない、と決めつけて、本人の気持ちを聞いたことがなかったのではないだろうか。
本当はもう少し早く気づけば良かったのだけれど、こういう事は切羽詰まって追いつめられて行動したからこそわかったことなんだろうな…。
余談:
せっかく中井貴一が演じてるんだから、チベット・ビルマ語系の民族を研究していて、
「私は若いとき、ミャンマー(ビルマ)で僧侶になる修行をしていたんですよ。そのころ不思議だなぁと思っていた風習と非常によく似た風習を雲南で見ましてね。それでこの地域を研究しようと思ったんです…。」
なんて言ったら一部地域(日本)でウケたのに。
(チャン・イーモウにそういうの期待しちゃダメだろうか?)。
| 固定リンク
「映画・テレビ」カテゴリの記事
- 映画「父は憶えている」(2023.12.19)
- 映画「深い河」(2019.12.28)
- 映画「予想外のでき事」(2019.12.22)
- 映画「ソローキンの見た桜」ららぽーとでも上映しないかなぁ?(2018.12.17)
- 映画「天才バレエダンサーの皮肉な運命」(2018.12.16)
コメント