暗渠のフタを開けてみる
最近、こういうのをみつけました。
(クリックするとものすごく拡大します。)
よ、用水路?
しかし、住宅地のど真ん中に用水路っていうのも変だし。
田んぼや畑だった頃の名残なんだろうか。
それにしても上のところの突っ張り棒みたいなのはなんだ???
転落防止の何か?
それにしては、すかすかなんだけど???
と、とっても不思議だったので写真に撮ってみました。
高い高架が東関東自動車道、低い方は一般道です。
別なときに一般道を上がって見たら、いわば尾根に出る道でした。
どうやらこの溝、自然の川のようですよ。
あとで地図を見たら、近くに犢橋貝塚(こてはしかいづか。位置をグーグルで見てみる)まであって、由緒正しい川のようです。
地図によると、この川の名前は草野川。
高速道路の下を流れる川…。
ミニミニ版日本橋川みたいですね。
自然の川に一時期フタをして暗渠にしていたんですかね。
暗渠の中って、こういうふうになっているんですね。
京成電鉄の線路をくぐります。
よく、昔この辺に来たことがあるという人から、
「京成の汽車から海が見えたんだよね~。」
って言われますが、さすがに埋め立て前のことは知りませんです…。
この背後が昔の海岸線です。
海岸段丘もここで切れていて、かつてはここから東京湾に注いでいたのでしょう。
(ここからあとは、「暗渠」を騙る…いや語る。)
「暗渠」という言葉を初めて知ったのは、ギリヤロフスキーの「帝政末期のモスクワ」だった。
ギリヤロフスキーが暗渠になっていたネグリンカ川に潜り込み、汚泥に埋もれた人体を踏んづけながらランプの光も届かない暗渠を進んでいく…汚物まみれになりながら。
だいたい帝政ロシア時代だし、一度も掃除されたことのない暗渠ネグリンカに潜り込んだのだから、極端な例だろうけれど、そういうイメージでインプットされてしまった。
そういうイメージとは、なんだかすごい秘密が隠されている探検の対象となるような、ひょっとしたら犯罪も絡んでいそうなアングラな所というイメージ。というか、本当にアンダーグラウンドだし(笑)。
実は、いつも歩いてる道が暗渠だったりして、身近すぎてロマンもへったくりもなさそうでも、「暗渠」と聞いただけでなんだかわくわくしてしまうんだなー。
参考文献:
帝政末期のモスクワ
V. A. ギリャロフスキー・著
村手 義治・訳
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コメント
ふふふふふふふふふふふふ。
地形散歩の世界にようこそ。
あの辺りはかつてもっと広大だった霞ヶ浦と現在の東京湾とを結ぶルートがいくつも走っていた地帯ですね。ちょっとした連水陸路地帯。
つhttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/30/2b162d751b59fbaa8c0c434aeedba8c2.jpg">古代・中世の関東
是非花見川-印旛沼ラインも散策してみてください。ほんとは今の新川へいく水路ではなく、もっと東寄りにルートがあったわけですが。
> 突っ張り棒
まさに水路を維持するための突っ張り棒ですね。
投稿: 蒸しぱん | 2007年2月25日 (日) 23時51分
>是非花見川-印旛沼ラインも散策してみてください。
地図見てたら、あれ、ここ歩いて行けそうだぞ、と思ったんですよ。そのうち歩いてみます。
東ってどのくらい東やねん…(笑)。
草野川よりもっと東?
投稿: 雪豹 | 2007年2月26日 (月) 00時00分
入り口は花見川でよいのですが、そのまままっすぐ新川放水路に行かず、途中で東に迂回する形になります>自然な地形。
あの放水路は分水嶺をぶち抜いて最短距離で作ってしまっているので昔の(古墳時代とか)ルートから外れている・・・はず。
草野川を遡っても花見川に邪魔されて分水嶺を越えられないです。
投稿: 蒸しぱん | 2007年2月26日 (月) 00時13分
勝田あたりから東に折れて、大日あたりからお隣の流れにひょいという感じなのかな…。
ちょうど出た印旛沼側にも浅間神社があるんだ…。
意味ありげ?
そういえば、リンク先が開きませんが。
投稿: 雪豹 | 2007年2月26日 (月) 07時09分
草野川って名前になっていますが、草野水路とも呼ばれていまして、昔は用水路だったみたいですよ。
下流の方の小学生はドブ川って呼んでましたが。
投稿: 現場付近に住むモノ | 2007年3月 2日 (金) 16時39分
おお、貴重な情報ありがとうございます。
最近(明治維新以降)の急激な宅地化で生活用水が流れ込みドブみたいになっちゃったったけど今は(比較的)きれいになったって、谷津干潟を思わせますね。
連水陸路というのは、河を船で遡って行き、隣の河が接近している箇所で船を陸に揚げ、「ころ」で隣の河まで引っ張っていける路のことで、ロシアがシベリアに進出していったときにもその手法を利用してますよね。
印旛沼と花見川の間もそれに似たような感じだったようで、比較的近年になってからも(江戸時代だったか、戦国時代だったか)運河を掘ろうとして失敗しているそうですから、そのころになっても交通上の要所だったんでしょうねぇ。
そのほかに、モンゴル高原や中央アジアに広く分布する「突厥の石人」と呼ばれる石像が腰に下げている発火具(ひうちがね)とまったく同じ物が千葉市から発掘されていて、私のような世界史(特に騎馬民族史)ファンから見ると、目がきらりーんとしてしまうような場所なんですよ~。
なんといっても近場なのが懐にも優しくて良い(笑)。
投稿: 雪豹 | 2007年3月 2日 (金) 19時15分