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2007年6月30日 (土)

【翻3-30】カガンのフィギュア

подставная фигура ぱつたう゛なーや ふぃぐーら

 パツタブナーヤは、偽のとかダミーのという意味。フィグーラは図形、彫像、人間、(人間の)姿…要するに、英語のfigure。
 ぴったり来る名詞が思いつかないで「形骸化した」と意訳にしてみたが、これは【翻3-12】傀儡(くぐつ)で中宗、睿宗が武則天の手の中で操られるマリオネットになっているのより更にひどく、西突厥のカガンがお飾りのお人形さんになっている様を表していて、まさに「フィギュア」。マリオネットなら、まだ動いたり踊ったりもするんだけどね~。フィギュアは飾るだけ…。

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 あ゛ーーー、最後のシメがこんなんで良いんだろうか~。
 …でも順番だからしょうがないか~。

 そういえば、「第2節 テュルク」の参考文献をあげてなかった。資料を書き込もうとした記事がボツになったせいもあるけど、実のところまだよく調べてないのであんまりないのです。今後の課題ということで…。…というか、手元にある資料もよく読み直さなければならないな、という気持ちで一杯です。
 とりあえず、「第3節 アルグゥの国」、気がついた分だけでもあげておきます。

参考文献:
玄奘著 水谷真成訳『大唐西域記1』平凡社東洋文庫653
Saiikiki1
1999年5月
(「中国古典文学大系」1971年11月の一冊だったものの再版)
56~68頁



護雅夫『古代トルコ民族史研究II
Noimage11992年 山川出版社
「いわゆるテュルギシュの銅銭について」





内藤みどり『西突厥史の研究
Nishi1988年2月 早稲田大学出版会
「砕葉の牙庭と羯丹山」1~21頁、
「初代砕葉鎮と唐軍に軍糧を送った安国」21~29頁





内藤みどり「突厥カプガン可汗の北庭攻撃」東洋学報 第76巻第3・4号 1995年3月

護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記
Noimage1桃源社 1969年1月
197、198頁。ルブルクのギョームの言う「オルガヌム」は「アルグゥ」の国が訛って伝わったものだという話。

東西交渉旅行記全集〈1〉中央アジア・蒙古旅行記(1965年)の新装版。


佐藤長『古代チベット史研究Noimage1東洋史研究会 昭和34年10月
「ロンチンリンの活動」p.344-361

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2007年6月29日 (金)

【翻3-29】ウルスとは、人々…とは限らない

улус うるーす

 かつてNHK大河ドラマ「北条時宗」にも、
「ウルスとは、人々。」
と出てたくらい有名なテュルク語/モンゴル語の単語だけれど、岩波ロシア語辞典には、こう解説してある。(1、2の意味は、↑と同じなので省略)

3〔史〕(ウラル・シベリア地方のチュルク系・モンゴル系民族の)村落、宿営地.

 突厥碑文に、soγd bercheler buqaraq ulus(ソグド ベルチェレル ブカラク ウルス)というナゾの(当時)語結合があり、これをどう解釈するかで大論争になってたらしいのだが、突厥碑文の言語がテュルク語だからulusは「人々」と言う意味だ、と思いこんでいると、合理的な説明が絶対できない。しかし、ロシア語に痕跡がバッチリ残っていたんだね。
 クリャシトルヌィが引用するマフムード=アルカーシュガリーの「ディーワーン=ルガート=アットゥルク(テュルク諸語集成)」のulush(ulus)の説明は、

「ウルシュ…チギルの言葉で村落だが、アルグゥの国、バラサグンおよびその周辺の住民のもとでは都市を意味する。そのため、バラサグンの都市は、クズ=ウルシュと呼ばれる」259。

と、第一義に「村落」、一部地方で「都市」。でも、「ディーワーン=ルガート=アットゥルク」のような、雲の上の辞書(爆)の血を引くような意味が手元のごくありふれたロシア語の辞書(トルコ語の辞書じゃないよ、ロシア語だよ)に出てるって、なんだか感心した。

 「ウルス」みたいなわかりきってる(と思ってるだけかもしれない)単語って、辞書引かないもんねぇ。でも基本語彙ほど難しいってのは、人類普遍の法則(笑)だと思う。

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2007年6月28日 (木)

【翻3-28】キリスト教徒いろいろ

несториане にすたりあーにぇ(?)

 たぶん、キリスト教ネストリウス派のこと。
 その複数形だろうけど、こういう特殊な形の複数形で思い浮かんだのが、

армяне (あるみゃーにぇ アルメニア人)
крестьяне(くりすちやーにぇ 農民)
христиане(ふりすちあーにぇ キリスト教徒)
…あれれ、キリスト教つながり?  なんか語の成り立ちの歴史に意味があるのか???

 この項では、ちょうど碑文の言語の複数形が話題になってるし、チベットの年代記で「ガルタグゥがソグドに捕らえられた」って引用箇所で、「ソグダグ」の「ダク」をチベット語の複数形の語尾と見て「ソグたち」と訳してあったりしたので、複数形ネタで。

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2007年6月27日 (水)

【翻3-27】都市国家

город ごーらと

都市、市、街。город Москва(ごーらと ますくう゛ぁ モスクワ市)という時の~市でもあるし、城と訳さないとヘンな箇所もある。
【翻3-18】オルドスのソグド聚落のколония(かろーにや 居留地、植民地)の対になる言葉のように使われているような感じもするし、колония自体も含まれているような感じの箇所もある。そういうところはきっと、都市国家ポリスpolisの訳語なんだろうな、と考えて「都市」にした。もちろん、植民市コロニーに対してはっきり母市と言いたい時には、метрополия(みとらぽーりや 母都、本国)が使われている。それでも、город(ごーらと)自体のニュアンスがもともとポリスっぽい。

古代ギリシャにたとえていろいろなことを説明している(例えば、ペリオイコイとかアンフィクテュオニアとか)のは、教養あるヨーロッパの人たちにはそういうのがわかりやすいんだろうけれども、教養のない者(←わたすです)をヒィヒィ言わせてくれるよなぁ(苦笑)。

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2007年6月26日 (火)

【翻3-26】「キオスク」はトルコ語か?

кёшки きょーしき

 たぶん、トルコ語でいうところのköşk(キョシュク 別荘、離れ)のことだろう。ロシア語のкиоск(きおーすく 売店、キオスク、(東洋風の)園亭)はここから来ているんじゃないかと思うんだけど、手元の語源辞典には載ってない。
 某鉄道会社の売店にこの名前が付いていて、トルコ語からとったって説明されていることがあるような気がするが、あれはどう見てもロシア語の形であって、トルコ語には見えないんだけど…。まー、どうせロシア語にはタタル語経由で入ったんだろうが。
 しかもköşkって、本来のトルコ語ではないらしく、トルコ語辞書を見ると、ペルシャ語って説明されている。ペルシャ語辞典は全然引けなかったので(字からして読めない)英和辞典を見てみると、

>ペルシャ語「宮殿」の意

と解説されてる。宮殿~~~(爆)。


【3-26】参考資料:
竹内和夫著『トルコ語辞典 改訂増補版』大学書林 1996年10月
Tjsozluk








N. M. シャンスキー、T. A. ボブロヴァ『ロシア語語源辞典』1994年
Н. М. ШАНСКИЙ Т. А. БОБРОВА ЭТИМОЛОГИЧЕСКИЙ СЛОВАРЬ РУССКОГО ЯЗЫКА "ПРОЗЕРПИНА" ТОО "ШКОЛА" МОСКВА 1994
Etymological_dictionary
「小」とはどこにも書いてはないが、小さい辞典なので小辞典なのかもしれない。だって、フランス語とかドイツ語とか比較的近年(17世紀とか)に入ってきた単語だけでなく、ラテン語、ギリシャ語起源なんてのは載ってるクセに、明らかにトルコ語、モンゴル語ってのはあんまり出てないんだもの。

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2007年6月25日 (月)

【翻3-25】カシュガルのマフムード

Махмуд Кашгарский まふむーと かしがーるすきー

 マフムード=カシュガルスキーって(笑)。なんか半端にロシア語になってるな~。カシュガルのマフムードって、まぁその通りなんだけど、なんだか変な感じ。日本では、マフムード=アル=カーシュガリーと書くのが普通かな。

Прокопий Кесарийский (ぷらこーぴー けーさりーすきー カイサレイアのプロコピオス)の方がまだ馴染んでるかな?(←いや~、馴染んでないだろ)

 でも、このくらいじゃ驚かないもんね。このテの名前では、

Александр Македонский あれくさーんどる まけどーんすきー

 マケドニアのアレクサンドロス…大王とは思えないほど弱そうな名前になっちゃってるのを始めに聞いた時のインパクトに比べれば、どんな「…スキー」でも、ふーん、くらいのものである(笑)。

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2007年6月24日 (日)

【翻3-24】匈奴とフンの関係

гунн ぐーん

 フン、フン族。岩波露和辞典に
「(文化財を破壊する)野蛮人.」
なんて書いてあるのは見なかったことにしよう(爆)。キリル字母には、ラテン字母のhにあたる文字がないのでг(げー g)になってるものかと。
 音としてはh音がまったくないわけではないが、特別なことがない限り単純にhはгに転写するようだ。戦争映画の中で、ドイツの独裁者の名前Гитлер(ぎーとれる ヒトラー)が連呼されるので、割とみんな知ってるかもしれない。私の場合は、「道中の点検」という映画でこの歴史上の人物の名を覚えた(笑)。

 で、本題。お察しの通り、ここでフンと言ってるのは匈奴のこと。匈奴とフンの関係は、証明できたのか否定されたのか、最新情報は知らない…というか、教えてちょーだい(笑)。
 紛らわしいから、匈奴に直しとけ、とか言われそうだが、匈奴はсюнну(すゅんぬぅ? hsiung-nu)と書き分けられているので、гунн ぐーんを勝手に匈奴と書き換える訳にはいかない。それに、ムグ山文書のγwnとフンと匈奴と突厥の関係が話題になっているので、やはりそのままにしとこっと(笑)。

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2007年6月23日 (土)

【翻3-23】ホルVSリン 熱闘!ケサル王

государство Линь がすぅだーるすとう゛ぁ りーに

 リン国。
 北史突厥伝の冒頭、

突厥者、其先居西海之右、獨為部落、蓋匈奴之別種也。姓阿史那氏。後為隣國所破、盡滅其族。

というテュルクの伝説に関する箇所に出てくる「隣国」をオゲルがそう翻訳しているのだという。しかもご丁寧にリン国は鮮卑系との説明付。それはさすがに違うんじゃないかなぁ…。
 チベットの英雄叙事詩「ケサル」にはリン国って出てくるけど、時代が違うしねぇ。これは漢字の意味通り隣の国っしょ。
 その漢字が音訳なのか意訳なのかってのは、判別が難しいんだろうな。伝統的な解釈が間違ってる場合もあるだろうが、考えすぎてトンデモになっちゃうのもまずい。

 日本語だと、漢字をそのまま書いておいた方が親切って場合が多そうだけど、漢字のない言葉に翻訳するときは音訳にするのか意訳にするのか、いずれにしろ苦労しそう。
 第三節の中の「セミレーチエの諸都市」では、清地(イシク=クル)のことをПрозрачное озеро(ぷらずらーちなえ おーぜら 澄んだ湖)と訳してある。大文字で始まるから固有名詞扱いなんだろうけど。
 まぁ、ここでは地名や役職名はたいてい漢字音と意味が併記してあるし、テュルク人の名前なんかはそれ自体が研究対象なんで詳しく書いてあるので、大丈夫なんだけどね。

参考文献:
『北史』中華書局
Hokushi「突厥伝」の冒頭、三二八五頁。

翻訳されているものなら、『騎馬民族史2』の「周書突厥伝」p.29、「隋書突厥伝」p.39、「北史突厥伝」p.65。



君島久子訳『ケサル大王物語 幻のチベット英雄伝
Noimage1筑摩書房世界の英雄伝説9 1987年3月

とにかく「ケサル」はおっそろしく長いうえにバリエーションが多いので、日本語の全訳はないようだ。
これは、ケサルがリン国に生まれることになるいきさつと、リン国とホルとの戦いまでの抄訳。本文は200ページほど。解説・櫻井龍彦。

金子英一「ケサル叙事詩」
Noimage1北村甫教授退官記念論文集 チベットの言語と文化』(冬樹社)昭和62年4月
pp.408-427



若松寛訳『ゲセル・ハーン物語 モンゴル英雄叙事詩
Geser平凡社東洋文庫566 1993年7月

ゲセルはケサルから派生して発展したのだという。「解説」にはケサルについても説明されているのでこちらも参照。




護雅夫「べー=オゲルのshad号研究」
Dt1古代トルコ民族史研究I』昭和42年3月 山川出版社
題名の通り、シャドについてしか検討してないんだけれど、オゲルがどういう人かはこれ読めばわかる。
…でもシャドの音写「殺」についても、「隣国」と似たようなことやってるなぁ、と。

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2007年6月22日 (金)

【翻3-22】風の道

ветер う゛ぇーちる

 風。屁という意味もあるが、ま、それも風には違いない。
 と言うか、それ以外の意味はないよなぁ…。困ったなぁ…。
 と、いうのも、この項の題、Дорога ветров (だろーが・う゛ぃとろーふ 風の道)というのだが、護雅夫著『古代トルコ民族史研究I』によると、これはWinding Road(遶路、曲がりくねった路)の誤訳だというのだ。
 しかし、英語windにはそういう意味があってもロシア語ветерにはないから救いようがない。そのまま書いとくしかないなぁ。説明入れとかないとまずい気もするので面倒くさい。

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さて、第1節はここまで。それで参考文献を並べてみたが思ったよりすかすかだ(笑)。
しらみつぶしにすると、きっともっとあるに違いない。

【3-1-1】 Alty chub soγdaq
白鳥庫吉「粟特國考」
Shiratori22白鳥庫吉著『西域史研究 下』岩波書店に収録

全集が何度か再版されているみたい。
著作権保護期間を過ぎているので全文スキャンして青空文庫にでもアップ?と一瞬思ったが、あまりにも長いので見ただけで挫折…(爆)。
まー、「粟特國考」を全文スキャンする心の余裕があるなら、当然、キョル=テギンのヤツを先にやるだろうな(笑)。


【3-1-2】 霊州襲撃
「薛懐義伝」
Kutojo『旧唐書』巻183中華書局のだと四七四一








内田吟風訳注「漢書匈奴伝」
Kiba1平凡社東洋文庫197『騎馬民族史1』pp.110~111あたり。








【3-1-3】 キタイの反乱
田村実造訳注「新唐書契丹伝」
Kiba1平凡社東洋文庫197『騎馬民族史1』p.320~321。「旧唐書契丹伝」p.312~313も参照。








『中国歴史地図帳 隋・唐・五代十国時期』
中国地図出版社

【3-1-4】 六州問題
布目潮風・栗原益男著『隋唐帝国
Zuitou講談社学術文庫








【3-1-8】 六州のソグド
小野川秀美「河曲六州胡の沿革」
Noimage1『東亜人文学報』第1巻第4号 昭和17年2月27日発行 京都帝国大学人文科学研究所
すごおく良くまとまってる。
もちろん古いので、今は「それは違う」という箇所もあるだろうけど、出典がいちいち書いてあるのでさかのぼって見に行きやすい。もう索引代わりってくらい。
これを読まずに六州胡が語れるか?!(笑)。

【3-1-10】 シルクロードのペリオイコイ
内藤みどり「突厥キョリ=チュル考」
Noimage1内陸アジア史研究13
1998年3月 内陸アジア史学会






池田温「沙州図教略考」
Noimage1榎博士還暦記念東洋史論叢』山川出版社 1975年11月

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2007年6月21日 (木)

【翻3-21】姑臧問題

Гуцзан ぐぅづぁん(?)

 グッザン(涼州、現在の甘粛州武威市)というのかな。
 まー、これはカタカナで書いておけば良いんだろうが、問題はそれにソグド語のローマナイズが併記されていて、「Кс’’п」と書いてあることだ。GとKは有声無声の差だからたいした違いじゃないし、ソグド語のローマナイズで「'」と書いてあるのはaと読めばいーんだろうというのは勘で(笑)わかるんだけども、「п」ってなんだ、「п」って。キリル文字転写してるのか? そうすると、「Кс’’п」はローマナイズすると「Ks''p」なのか? でも最後がPじゃグッザンってどうひねっても読めないだろ???
 となると、モトを見ないと駄目なんだけど、これ出所、ペリオ? 敦煌文書なんぞ知らんがな。途方に暮れること幾星霜…も経ってないけど、あれでもないこれでもないと家にある資料をひっくり返すが出てこない…。

 そこでとりあえずはネットに頼ることにする。これで出なかったら原註に出ている榎一雄の論文か池田温の論文かを国会図書館あたりにあさりに行くしかないが、とりあえずアタックじゃい。ロシア語から日本語に訳し、日本語の漢字をエキサイト辞書でピンインに直し検索、それらしい英語の頁が出たら検索、中国語(簡体字・繁体字)のが出たら検索、日本語のそれらしいPDF文書が出たらダウンロードして読んで、キィワードをピックアップしてまたまた検索、(ここで「振り出しに戻る」を繰り返す)…とだんだん近づいていったら、これ、Sogdian ancient lettersという結構有名な史料らしくて(その割にはHIT数少ないぞ)、ローマナイズされたソグド語と英語の対訳がされている頁があったのだ。

 それによると、「Kc'n」。…やっぱり誤植か。

 ラテン字母のnとロシア語のпは似てる。筆記体だと全く同じ。実際、OCRで読むとよく間違う。ロシアの印刷所の人にとって、それを見分けるのは難しいだろう。たとえこういった学術モノを出し慣れている印刷所だったにせよ、中央アジアだけやってる訳じゃないだろうし。
 敦煌文書とかシルクロードとかに精通している人にとっては、見ただけでピンと来るものなんだろうなぁ…。この項は、ピンインなんだかロシア語の慣用読みなんだかソグド語なんだかわけわかんない人名やら地名やらが大量に出てきて、それを漢字にするだけで疲れた…。

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 さて、つい先日。グッサンについては、内藤みどり「突厥キョリ=チュル考」『内陸アジア史研究13』にバッチリ出てる事に気づき超がっくし。しかも、岩佐精一郎「突厥毘伽可汗碑文の紀年」の所に、自分でその論文を参考してね(はぁと)と書いてるのに、何一つとして覚えてない自分にまたがっくし…。

 立ち直れない(爆)。


【3-21】参考資料
岩佐精一郎「突厥毘伽可汗碑文の紀年」『東洋學報』第23卷第4号昭和11年8月発行
Noimage1『岩佐精一郎遺稿』(昭和11年11月20日發行)岩佐傳一
にも収録されているけど、若くして病死した息子の論文を父が自費出版したみたいな本なので見つけるのは難しいよね…。

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2007年6月20日 (水)

【翻3-20】セリンディアのペリオイキス

Сериндия せりんぢや(?)

 スタインの第二次中央アジア探査の報告書がまさに「セリンディア」という題名なんだけど、ぐぐっても、それ以外に出てこない。??? 造語か?
 「セリンディア」を読めば、序文にでも書いてあるかもしれないが、これ、英語なんだよな…。この報告書が出た頃にはそのスジの人々には一時的に流行ったものの、21世紀までは残らなかったとか? とりあえず私は初めて聞いた言葉だぢょ…。
 とにかく、日本語に定着してないモノをカタカナ書きしても訳したことにならない。スタインの踏査した地域を見れば、いわゆる「西域」なんだろうが、ロシア人から見たら「西」域じゃないから、ここで使うのは不自然。困るぅ。いっそのこと曖昧に「シルクロード」ってしちゃおっか。てへ。

периэгеса ぺりえげさ(?)

 ギリシャ語。ペリオイコイperioikoiの地という意味らしい。広辞苑によると、ペリオイコイとは、

古代スパルタの半自由民で、市民とヘイロタイの中間に位置する。参政権はないが地方自治権を持ち、従軍・貢納の義務を負った。

 ということで、まさにここに述べられているソグドと同じような人たちじゃないっすか。で、ペリオイコイは広辞苑にもエキサイト国語辞書(大辞林 第二版)にも載ってたってことで、一般常識であると見なせるが、ペリオイキスは出てなかったので、一般的ではなかろうと思って使わないでおこうかな。

 ちなみに、この題名を「古代トルコ民族史研究I」で護雅夫氏は「Serindiaの旅行記」と訳しているが(p.569)、これではクリャシトルヌィがこの段落のシメの部分で、

この記事よりやや早く、一部土地の住人を混じえた「商人の」ソグドが伊吾(ハミ)を占領した。千の「勝兵」を備えた彼らは充分自立しており、状況次第で中国の宗主権も、テュルクの宗主権も、鉄勒の宗主権も承認した109。

というふうに、ソグドの居留地が独自の軍隊を備え、独自の政治的判断で宗主国を決める東方のペリオイコイ的な有り様を描いているのが生きてこない。誤訳であろう。

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2007年6月19日 (火)

【翻3-19】城塞都市

городище がらぢーしぇ

 考古学の用語で、防塞集落趾、城塞趾。

 いかにもгород(ごーらと 街、市、都市)等々と同じ仲間の言葉。そもそも「街」の起源が城壁に囲まれている集落だったせいだろう。中国語の「城」に近い感じなんではないだろうかと思ったりして。実際、『大唐西域記』からの引用部分では、「城」の訳語としてゴーラトが使われている(【翻3-27】都市国家参照)。

 でも、城塞趾とはいっても、カラヂーシェは、我々が「城」という言葉から思い浮かぶような、がっちりした石造りの城壁があるのはごく稀で、ましてや現代の日本人が城を復元、という時に思わず造って(創って?)しまいがちな天守閣などはあるまい。

創作例:千葉城
Chibajo

 そういうわけで、城趾と訳してしまうと誤解を受ける可能性がある単語のためか、昔の論文なんかでは(今も?)「ゴロジシチェ」とか、訳さずにそのまま書いてある事がよくある。最近見た、白石典之著『チンギス・カン』では「ガラディーシェ」と書いてあったな(p.13)。『チンギス・カン』にはそれがどういうモノか説明してあるのでわかるのだけれど、説明なしでいきなり出て来ることがある。表記が今風でないと「え?」と一瞬わからないことあるんだけど、これって考古学の世界では説明無しでもOKなほど定着した用語なのかなぁ?

【3-19】参考資料:
白石典之『チンギス・カン “蒼き狼”の実像』中公新書
Genghiskhan

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2007年6月18日 (月)

【翻3-18】オルドスのソグド聚落

колония かろーにや

 植民地(コロニー)であるが、居留地で統一した。長安とか涼州なんかの大都市の中にあるソグド人の集住している地区も、かろーにやといっているので、イメージ的には租界とか、ゲットーのようなもののような気がしたので。ただ、租界とかゲットーと言うと余分なイメージが付いているので、単に集住している場所という意味を出したかった。
 あと、コロニーというと、シャーレの寒天にガラスの棒で菌か何かをこすりつけてしばらくしてできてるアレを真っ先に思い出すので、気分的になんか嫌だ(笑)。

 それで、例えば、池田温著『敦煌文書の世界』などを見ると、「聚落」となっているのが、まさにこれにあたるのだろうが、なぜそうしなかったかというと、同じモノを指すのに、似たような言葉がいくつか使われているからだ。

посёлок ぱしょーらく (都市の郊外などにある)小さな町、集落
селение すぃれーにえ (農村部の)村落
население なすぃれーにえ (自然に移ってきて住み着く感じ?)入植、定住
поселение ぱすぃれーにえ (自分からというよりは住まわせられる感じ?)入植、定住、移住、流刑

 ロシア語書く人は、同じ単語を何度も繰り返すのを避ける。文学じゃあるまいし何気取ってるんだ、と思うが、公の文書の類でも固有名詞でさえ言い換えている場合があって、アレ、本当の本当に同じモノかな?と考えてしまうことがある。こういう習慣のある人たちって、紛らわしいサイト名とかで思わず変なサイトに誘導されちゃったりしないのかな?(笑)
 なので、こういうのをいちいち訳し分けずに、全部「集落」か「聚落」で統一してもまったく問題ないとは思うのだが、やはり無意識のうちに話題によってその聚落のどういう側面について話しているのかに対応しているような気もするので、試しに太字の訳語で通してみた(だいたい)というわけ。


【3-18】参考資料:
池田温『敦煌文書の世界
Dunhuang名著刊行会2003年1月

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2007年6月17日 (日)

【翻3-17】バルバロイ

варвар う゛ぁ-るう゛ぁる

 辞書だと蛮族だが、やっぱりバルバロイにしておいた。でも、ロシア語は[v]音だけど、バルバロイはbarbaroiで[b]なんだよな。
…一抹の不安がよぎる(爆)。

 ついでながら、蛮と言えば南詔蛮とか爨蛮とか雲南のどこぞの民族の言葉でいう「~族」という語の音写のようで、漢字の持つ意味は自分ではもうほとんど意識していないのだけれど、以前、神田の某中国語の書籍を扱っている本屋で『蛮書』がないか検索してもらったときに、
「『蛮書』のばんはどんな字ですか?」
と聞かれ、自分から
「野蛮の蛮です。」
と言っておきながら、店の人が
「ばんしょ、ばんしょ…ないなぁ。ばんは野蛮の蛮ですよね?」
「野蛮人の蛮ですよね?」
「やばん、やばん」
「ババンババンバンバン♪(←そんなことは言ってない)」
と何度も聞き返すのでそのうちなんだか腹が立ってきた(笑)。

 「北狄」なんかも自分や草原系の人が言うのは全く気にならないが、中国史の人とかに言われるとなんだかむかつくのはどういうわけか(笑)。


【3-17】参考資料
「蛮書」については、昔書いた紹介→『蛮書校注

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2007年6月16日 (土)

【翻3-16】陝西と山西

Шаньси しゃんすぃー

 現在の山西(省)。
 よく似たのにШэньси(しぇんすぃー)というのがあって、こっちが現在の陝西(省)を指しているものとして機械的に漢字にしてみた。現代の地名なので、現行のロシア語の地図を見れば出ている。かんたん、かんたん(笑)。

 念のため、ピンインを見てみる。

○陝西 Shanxi
○山西 Shanxi

…同じじゃん(爆)。もちろん声調が違うから間違うことはないんだろうが、ロシア語に声調なんてない。どういう具合で書き分けてんだろ。慣用読みだろうか。
 でも、んせい→しぇんすぃー、んせい→しゃんすぃー と聞こえるって事は、割と日本人と耳が近かったりして。

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2007年6月15日 (金)

【翻3-15】世界の中心

Срединное государство すりぢーんなえ がすぅだーるすとう゛ぁ

 文字通りには「真ん中の国」。「中国」ってそもそも、世界の中心の国って意味だった(笑)。それを意味通りに直訳したものでカッコ付きで書かれている。【翻3-8】キタイと契丹のように中国は「Китай きたーい」と言うのが普通で、中華思想的なものを強調して(皮肉って?)いるんだろう。

 「真ん中」を意味する言葉はいくつかあるが、ふと思い出したのが「中央アジア」。

1) Средняя Азия すれーどにゃや あーじや
2) Центральная Азия つぇんとらーりなや あーじや

 СредняяはMiddle、ЦентральнаяはCentralに近い感じはするが、この言葉のロシア語の意味する範囲と英語の意味する範囲と日本語の意味する範囲はズレている。
 ソ連時代の使い方だと、ソ連国内の中央アジア諸共和国はスレードニャヤ・アージアで、なぜかこれにはカザフスタンが入ってない。ツェントラーリナヤ・アージアの方は新彊ウイグル、チベット、ゴビ地方。

 と、すると、どちらの「中央アジア」にもカザフスタンとモンゴルが入ってない?

 政治的な意図がむんむん漂ってくるわざとらしい言葉なので、たぶんそれを避けるために「内陸アジア」とか、最近だと「中央ユーラシア」と言うんだろう。
 別の箇所では「Центральная и Средняя Азия つぇんとらーりなや い すれーどにゃや あーじや」という言い方をしていて、上の1)と2)を足したものだけれども、文脈からカザフスタンやモンゴルも入っている。普通に考える「中央アジア」ってかえって、こういう曖昧でおおざっぱなのが一番正解なんじゃないか。


【3-15】参考文献:
中央ユーラシアを知る事典』平凡社
Central_eurasiaf

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2007年6月14日 (木)

【翻3-14】唐におけるクニャージの立場

князь くにゃーし

 この次の「1-5 中国での戦い」で相王旦の「王」の部分にも充てられているが、カプガンが武延秀のことを「武氏の身分の低い諸王」と罵るときの「王」がこれ。
 く、クニャージって、そういうもんだったっけ? と少々疑問に思うのだけれど、ロシアのクニャージがどういうものかちゃんと説明できるほどわかってないし、中国のなんちゃら「王」もKingとは違うよな…。称号とか爵のたぐいということを表しているのかな???

 …ハッ、でもそういえば自分、クニャージのイメージって、「巨竜と魔王征服 イリヤ・ムーロメッツ」のウラジーミル大公や、「アレクサンドル・ネフスキー」のアレクサンドル等々、映画で見たイメージしか持ってないかもしれない。何か大きく間違ってやしないかと大いに不安だ(笑)。

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2007年6月13日 (水)

【翻3-13】仏陀の娘

дочь Будды どーち ぶーっどぃ

 文字通りだと「仏陀の娘」。「…の娘」とか「…の子」で比喩的に「申し子」的な使い方もするだろうが、それでもせいぜい「ホトケの申し子」くらいにしか訳せないよな…。

 普通の本ではどうなってるかな?

『大方等無想大雲経』をもちだして、その中の浄光天女即位と、弥勒仏下生とを結びつけて、女帝出現の基礎理論を作った。(布目潮風・栗原益男『隋唐帝国』)

 うーん…。一言では言えなそうだなあ。
 Вочеловечение(う゛ぁちらう゛ぇーちぇにえ 受肉したもの、神が人の形を取ったもの)とかПришествие(ぷりしぇーすとう゛ぃえ 降臨)とか使えばもっと自然な言い回しになりそうな気もするが…。キリストにしか使えないとか何か制約があるのかなぁ?
 もっとも、そういうの使えば使うほど胡散臭さバクハツ(笑)。

【翻3-13】参考文献:
布目潮風・栗原益男著『隋唐帝国』講談社学術文庫
Zuitou
引用箇所は「第3章 則天武后-女帝の出現」p.127

唐について書かれたものがいろいろある中で、一番安いのを買ったつもり…小さいし(分厚いけど)。

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2007年6月12日 (火)

【翻3-12】傀儡(くぐつ)

марионетка まりおにぇーっとか

 操り人形。傀儡(くぐつ)。
 どこでも発想は同じなんだなぁ、と感心したので挙げてみた。本当に傀儡政権って、絵がぱっと浮かぶうまい表現だな、とも。
 あ、でも本来のロシア語の表現かどうかは、ちゃんと調べないとわからないか。ラテン語?ギリシャ語?等々の単語や直訳でロシア語の決まった言い回しになってるモノって結構多いから、油断できない(笑)。

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2007年6月11日 (月)

【翻3-11】淮陽王武延秀

 訳注付けられるほどご立派な人間じゃないので、特に付けない方針だったが、こんな箇所が出てきて、どうしようか困っている。

...а принцы, Хуай-ян и У янь-сю, отправились в ставку тюркского кагана, чтобы просить руки его дочерей.
(直訳)…一方、皇子たち、淮陽と武延秀は、テュルクのカガンの本営に彼の娘に求婚するために派遣された(彼らは)。

 旧唐書本紀の当該部分はこんな感じ(本紀第六則天皇后)。

秋七月、令淮陽王武延秀往突厥、納黙啜女為妃。

 さすがに誤訳だろ、これは。何語かに訳されたモノを使っているんだろうが、ここにはどの訳を使ったか書いてない。ビチューリン訳ならこの程度の誤訳はままあるので驚きはしないし、心おきなく「誤訳だ」と断言できるのだが(笑)。劉茂才訳だと後で
「私が間違ってました。無知でした。ゴメンナサイ」
となる可能性が高い(爆)。

 イアキンフ=ビチューリンって19世紀の人じゃん。しかもどっちかというと19世紀の前の方。
1-2 霊州襲撃に「漢書匈奴伝」から引用してある箇所があるけど、それを見ると
Сии горы.. すぃー ごーるぃ(これらの山々)
なんて見慣れない、つまり現代語でない言葉を使っていたりする。たとえてみれば、私たちが「集史」の内容を知るためにドーソン著「モンゴル帝国史」使ってるようなもんじゃないかな?(←でも、使わざるを得ないんよね。だって、集史の翻訳出してくれないんだもん。)

 ついでながら、この武延秀という人、突厥語に堪能で突厥語の歌を踊ったり突厥風の舞を踊ったり、かなりの突厥通。う、うらやまし~。私もカプガンの本営に拘留してくれ(爆)。
 旧唐書の武延秀伝には長いこと突厥に拘留されていたからと説明されているが、もともとそういうマインドがあったからこそ、カプガン=カガンの娘を妃にする役回りが回ってきたんじゃないのかなぁ。

【3-12】参考文献:
V. V. バルトリド著『歐洲殊に露西亜における東洋研究史』
Bartold外務省調査部 昭和12年1月

これを見ると、原註に出てくる人たちのことが大まかにわかるので参考書に持ってこい。





ドーソン著・佐口透訳注『モンゴル帝国史』
Dohsson平凡社東洋文庫

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2007年6月10日 (日)

【翻3-10】ソグド自治管区

округ おーくるく

 「キタイの反乱」の段落では六州の「州」に充てられているが、この章の核心でもある「六胡州」の「州」はもっぱらオークルクだから、それと結びつけるために意識して使われているようだ。他の州は普通にобласть(おーぶらすち、州)か漢字の読みのまま-чжоу(じょーう? ピンインは-zhou)なので。

 六胡州がオーブラスチでなくオークルクなのは、やはりソグドの「民族管区」というニュアンスが含まれているからだろうか。現在のロシアや旧ソ連では例えば、Агинский Бурятский автономный округ(あぎーんすきー ぶりゃーつきー あふたのーむぬぃ おーくるく アガ・ブリヤート民族自治管区)等々のように州(область おーぶらすち)または地方(край くらーい)の中にある少数民族の「民族管区」という感じがする。

 …まぁ、六胡州がどこにあったのかは正確にはわからない(遊牧民の州だから、場所が曖昧な可能性もあるかも)し、どこかの州の下位って訳でもないんだろうが。

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2007年6月 9日 (土)

【翻3-9】熱河作戦

Жэхэ じぇへー

 熱河(ジョホール)の事らしい。これは正直言ってまいった。

 満州国まわりをやっている人なら、ジェヘー→ジョホール→熱河(省)と連想が働くのだろうけれど、唐代の地名でもない、現代の地図にも載ってない、となると私にはまったくお手上げだ。インターネットがなければ、ジェヘーとそのまま書くか、論旨に関係ない箇所なので括弧部分をこっそり削除していたかもしれない(←よい子は真似しないように…笑)。

 「熱河」にたどり着くまでは大変だった。まぁ、最初は平凡社東洋文庫の「騎馬民族史」の突厥伝と契丹伝見るわな。なければ、現代の地名かと思って高校地図帳(いまだに使ってる!)見るわな。現代の地名でもないから、古名の異名かとも思って元和郡県図史やら新唐書地理史やら何やら見るわな。ピンインを調べつつなんだけど、キリル文字にするとき、日本語のカタカナと同じで綴りじゃなくて音で写しているようで、ラテン字母に復元できないのだ。しかも読みもロシア語なまり。
 それでもないと、論文の書かれた当時の地名かと思ってそんな地図持ってるはずもないのでダメ元でネットを調べる…。

 あった!…けど…。ロシア語で解説されてるよ(爆)。
 意味がわかっても日本語または中国語の漢字の地名には直せない。うー。うー。
 運良く日本が絡んだ地名だったのでヒットした事項から連想して辞書引いてまたぐぐって連想して辞書引いて…。
 結局決め手はもっともオーソドックスな手段、広辞苑だった。
 この論文の書かれた当時既にこのいやな思い出(中国にとって)のある地名は変えられていたと思うが、極東に 関心のある向きにとってはこっちのほうがぴんとくる地名だったのだろう。

続きを読む "【翻3-9】熱河作戦"

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2007年6月 8日 (金)

【翻3-8】キタイと契丹

Китай きたーい

 中国。ロシア語で中国をキタイと言い、それが元をたどれば契丹(キタイ)だというのは比較的有名。
 これ、本物のキタイ(笑)の活躍する時代はどうするんだろう、密かにキタイ、ではなく心配していた。
こうなってた。

кидань きだーに

漢字の「契丹」の読みだろう。
 で、このまま活用していたり、形容詞を作っていたりするからほほう、と思ってしまう。

 唐人の方をкитайцы きたーいつぃ(複数形)と書いてあって、こっちの方がよっぽどキタイじゃないかと思うが、両方が入り乱れていても紛れることはない。
 ま、我々もカルタとカルテを間違えないどころか、ファイル(コクヨとかキングとかの)とファイル(パソコンの中の)だって使い分けてる。別に不思議でも何でもなくまったく別物なんだろうな。

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2007年6月 7日 (木)

【翻3-7】漢の武帝

Хяо Ву-ди ひゃお う゛ぅ=ぢぃ(?)←読めない。

 ピンインxiao wu-di(孝武帝)のキリル文字表記らしい。う゛ー=ぢーってのが武帝だというのは想像が付いたものの、Хяо(ひゃお?)ってなんだろうってずっと悩んでいたが。

 でも武后はимператрица У(いんぴらとりーつぁ うー 武皇后または女帝武)になってるんだな。武攸宜もウ=ユイって読んでるし…。

 確かに、時代によって漢字の音は違うということだけど、これは武帝の時代と武后の時代の音の違いと言うよりは、むしろ、拠っている資料がバラバラに読んでいるからかな、と想像してみたり…。

 そうだ、慣用読みって可能性もあり?
 …でも、そもそも「慣用」読みがあるほどメジャーな分野なのかな?(汗)

 日本語でも、「和尚」と書いて、おしょう、かしょう、わじょうなどといろいろに読んだり、呉音とか漢音とかあるのと似たようなことがロシア語でもあるってことか?

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2007年6月 6日 (水)

【翻3-6】襲い掛かるもの

набег なべーく

 二番目の小見出し「霊州襲撃」に使われている語だが、軍事用語でいえば「急襲」。бег(べーく、走ること)が中に入っていることから、機動力のある部隊でいきなり襲いかかる感じがする。
 で、岩波ロシア語辞典に出ている例文がまさに

набеги кочевников なべーぎぃ・かちぇーう゛にかふ 遊牧民の襲撃

…典型的な例ってわけか(笑)。

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2007年6月 5日 (火)

【翻3-5】胡瓜の王子さま

Капаган-каган かぱがん=かがーん

 突厥第二帝国の第二代カガン。今はКапган-каган(かぷがん=かがーん)と書く方が普通だろうが、原文のままにしておいた。
 では、キョル=テギンはКюль-тегин(きゅり=てぎーん)と書いてあるのに、キョル=テギンと直しているのはなぜか、と言われそうだ(笑)。

 …それは、やはり語感が悪いの一言に尽きる。以上。(←深く追求されたくないらしい)

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2007年6月 4日 (月)

【翻3-4】人々が先か、国家が先か

согдийцы さぐぢーつぃ

 ソグド人(複数形)。「ソグダク」の訳に当てられている。
 日本語の場合、まず「日本」という国家もしくは国土があって、「日本人」はそこから派生したカタチになっている。ロシア語も同じで、Русь(るーし、国家の名)→русский(るーすきー、民族名)という方向だ。

 遊牧の民の場合は逆で、テュルク(民族名)→テュルキエ(国名、現在のトルコ共和国。突厥の場合は民族名に同じ)とか、タタル(民族名)→タタルスタン(国名)といった具合。まー、土地に農耕民ほど強く結びついていないので、人間が中心にあるってのはあったりまえーといえばあったりまえー、なんだけど。

 それで。私自身は、単に「ソグド」といった場合、普通ソグドという人々(それこそ「ソグダク」の方)を思い浮かべるからсогдийцы(さぐぢーつぃ)の訳語としては「ソグド」を使ったんだけど、一般的には、Согд(そーくと? ソグドの国)の方を「ソグド」と書いているのかなぁ?

 え、「ソグドの国」って書かずに一語で「ソグディアナ」にしとけば土地と人の見分けがつきやすいって?

 いや~でも、Согдиана(ソグディアナ)って別に出てくるのよ。それで、たぶんほとんど同じ意味で、使う人も意識してるのかしてないのかもわからないんだけど、ニュアンスが微妙に違うような気がするんだよね~。Согдの方がソグドの立てた「国」やら「都市(城)」やらという感じで、ソグディアナだと地方というか、
「あなたのおくにはどこですか?」
って場合の「くに」で、故郷と書いてひらがなで「くに」とルビを振る感じ。

 …でもシルクロード業界では何が普通で何が普通で一般常識なのかよく知らないので、まぁ、いいか。自分の感覚で書き分けとけい。(爆)。

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2007年6月 3日 (日)

【翻3-3】冠詞と人民

《отдел народа》 あっぢぇーる・なろーだ

 отдел(あっぢぇーる)は「部分」。
 定冠詞、不定冠詞はロシア語にはないが(ってゆーか世界の大部分の言語には冠詞はないような…)、あった方がわかりやすいときもある。単数になっているので、英語で言えばaとかoneがついているつもりで訳してみた…自信はまるきりないけどね~(爆)。

 идти в народ(いっちー・う゛なろーと 人民の中へ)といったキーワードでロシア語のまま世界史の教科書にも出てるかと思われるナロードという語はなかなかクセ者。上の例の他にも突厥碑文中のテュルク語・ブドゥン(部民)がナロードと訳されている。民衆とかたみくさのことなんだろうが、いい加減に訳してたら、第3節で、似たようなロシア語люди(りゅーぢぃ 人々)やらテュルク語のulusと一緒に出てきて、思わず踊った。ち、違いが微妙じゃないっすか?(汗)。

 それにしても、社会主義関係でナロードを人民と訳すのはどこから来てるんだろ? 中国語かな? ともかく、ロシアねたでソ連崩壊後ナロードという語を「人民」とは訳さないように他の単語も社会主義臭く訳さないようになったから、ロシアからは急速に共産主義臭さが消えたかのように感じるが、もとのロシア語はそれほどは変わっていないんじゃないかな。ロシア人だってソ連時代とあんまり変わって見えないし。まー、さすがにтоварищ(たう゛ぁーりし 同志)って呼びかけはなくなったのかもしれないが…。

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2007年6月 2日 (土)

【翻3-2】ツァーリ≡ハーン

царевич つぁれーう゛ぃち

 царь(つぁーり)の息子なので、-евичを付けて皇子、王子。娘はцаревна(つぁれーう゛な)。父称と同じ作り方でんな~。
 冒頭にイリテリシュ=カガン(突厥第二帝国の初代カガン、クトルグ)の息子たちがツァレーヴィチと書いてあって、思わずひっくり返った。感覚的にツァーリとハーン(カガン)は全くの等価のようだ。
 山川の『北アジア史』には護雅夫氏がこのカガンの息子たちを「皇子」と呼んでいるので、それに従って訳語に「皇子」を使おうと思ったが、ぢつは、護氏は、『古代トルコ民族史研究III』では、その部分を「王子」と改めているのだ。なので、皇子と書く気にならなかったので、「カガンの息子たち」となんかこうばらけた書き方をしてしまった。だって、私の頭の中では、格好いい度合いはこう(下図参照)なっているもので(笑)。

ツァーリ<ハーン<カガン

 ちなみに、カガンの息子だからといって、父称を作る要領でкаган(かがん)+ович(…オヴィチ 父称を作るときの接尾辞)でカガノヴィチとかにしてはいけない(笑)。

【3-2】参考文献:
護雅夫「突厥の遊牧国家」
Dt3護雅夫著『古代トルコ民族史研究III』に収録。
総論 古代北アジア遊牧国家史概観の第二節第一項(p.43)。





護雅夫「突厥の遊牧国家」
N_asia世界各国史12『北アジア史』(新版)山川出版社
第三章「遊牧国家の「文明化」」の第一節(p.83)。



宮脇淳子著『最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡』講談社選書メチエ
Juungharツァーリとハーンが等しいというのは、「「黄金のオルド」を継承したロシア」で説明されている(特にp.160あたり)ような理由からだろうが、実際にここまで混じっているのを見ると、「西に向けてはツァーリの顔、東に向けてはハーンの顔」っていう政治外交上の打算じゃないんじゃないかと思える。
※セミョーン・ベクブラートヴィチ(サイン・ブラト)については映画「イワン雷帝」も参照。
あと、チンギス統原理のようなのは阿史那氏にもあるので、この本は見かけたら迷わず買えと言いたい(笑)。

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2007年6月 1日 (金)

【翻3-1】ボリシェビキ…?

Большая надпись ばりしゃーや・なーとぴし

 どの突厥碑文を表すかの略称で
(КТб)
(КТм)
というのが出てくる。КТというのは「キョル=テギン碑文」の略称なんだろうが、問題は小文字の部分。
 б…とみると、反射的に「большевики(ばりしう゛ぃきー ボリシェビキ)?」と思ってしまう。じゃあ何だ、мはメンシェビキか? あり得ないだろ(笑)。
 бとмと対比して使われているからには、やはりбольшая(ばりしゃーや 大きい)とмалая(まーらや 小さい)なのだろう。でも、ビルゲ=カガン碑文なら、大断片なのかもしれないが、キョル=テギン碑は特に割れてないはず。大と小って?

 それで、小野川秀美訳の突厥碑文と見比べてみると、大となっているのは東面で、小となっているのは南面だ。この段落の本文中にも出てくるが、突厥では正面は東なので、碑石は東を向いて建てられる。それで正面の東が広い(大きい)面となるから、そういうことなんだろうか。
 しかし納得しがたいのは、広い面は前だけでなく後ろにもあるだろう、という事。
 たまたま、キョル=テギン碑文、ビルゲ=カガン碑文の裏は、当時の唐の皇帝・玄宗の書いた漢文なので紛れることはないのだろうが、実はその余白にもルーン体文字が書かれているし、狭い(小さい)方の面に至っては同等なのが二つある(南面と北面)ではないか。その区別はどうすんだ。
???

 えーい。もういーわい。出てくるたびに確認するから(投)。

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