ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(1/7)
第二部
グユク=ハンについての叙述。(彼の即位の)日付と彼の治世に関する物語、彼がハンの位に坐していた時の玉座、妻たち、皇子たちとアミールたちの描写。彼が行った会戦について、彼が収めた勝利についてと彼の即位の前に起こった(事件)についての覚書。
(グユク=ハンの即位前に起こった)事件。
ウゲデイ=ハンが逝去したとき、彼の長子グユク=ハンはまだ(ダシト=イ・キプチャク)遠征から戻っておらず(注3)、まもなくムカ=ハトゥン(訳注1)も亡くなった。そして高位の息子たちの母だったトラキナ=ハトゥンが巧妙に抜け目なく立ち回って一族の者と話し合うことなく、自らの意志で国家権力を奪取した。彼女はありとあらゆる贈り物で親戚・アミール一同の心を捉え、皆、彼女の側を支持してその指揮下に入ったのだった。チンカイと他のカァンのナイーブたち、ワジールたちは、従来通り(自分の)任についており、地方の総督は本来の任務に(留まっていた)。カァンの時代(トゥラキナ=ハトゥンは)一部の人たちに対して怒りを顕わにし、心の中では(彼らを)嫌っていたので、今や最高権力を持つ主権者になったこの機に(注4)、それぞれに報復してやろうと思った。彼女には、ホラーサーン征服時にトゥース(注5)のメシヘドから捕虜として連れてこられたファティマという名の一人の腹心がいた。彼女はたいへん機敏でできる人物だったので、自分の主の代理人・機密の保守者になった。(国家の)地方の高官たちは彼女の助けを借りて(すべての)重要事を処理した。この友の助言に従い(トゥラキナ=ハトゥンは)カァンの時代に要職に就けられていたアミールや政府高官らを罷免し、その地位に無知な人々を任命した。彼らはカァンの大ワジールだったチンカイを捕まえようともくろんだ。彼は(これに)気づき、逃走してクデンのもとへ行き、彼の庇護を求めた。ファティマはカァンがサーヒブ=ディーワーンの職に任命なさったマフムード・ヤラワーチに遺恨を持っていた。好機をとらえて(トゥラキナ=ハトゥンは)彼の代わりにアブド=アル=ラフマンとかいう人物を任命し、ヤラワーチをヌケルともども逮捕、連行するために、彼(アブド=アル=ラフマン)と一緒に使者として武器職人カルを派遣した。使節たちが到着したとき、ヤラワーチは、陽気にはつらつとして(彼らを)出迎え、目上の者に対する礼をとった。二日間彼は心地よい気配りと下にも置かぬもてなしで彼らを引き留め、
「今日は酒(注6)を飲みましょう、それで(明日の)朝にヤルリクの指示をしっかり聴きましょう」
と言った。その一方、(自らは)密かに脱走に備えた。武器職人カルは、彼のヌケルを捕らえて枷をはめるように命じた。ヤラワーチは彼らに
「私を悪し様に言い、『我々がヤラワーチの密告者だ、いったい我々をあなたはいかなる咎のゆえに捕えて枷をはめるのか? 我々は神にこのような幸運を希ったのだ』とわめきなさい」
と言い含めた。三夜目、ヤラワーチは彼らを飲みに誘い、たらふく飲ませて足腰も立たないようにしてやった。一方、(自身は)何騎かともなってクデンのもとに走り、彼らの悪意から逃れて安息を得た。チンカイとヤラワーチは(自ら)クデンのもとに逃げ場を見つけ出し、彼の好意を受けた。その翌日、武器職人カルにヤラワーチの逃亡が知れ、彼はそのヌケルの監禁を解き、ヤラワーチの足跡をたどって行った。彼はクデンのもとに到着すると、(彼に)ヤラワーチを逮捕・連行せよとの母の命令を告げた。続いて同じ目的を持ち、同じ勧告を携えた他の急使も到着した。クデンは、
「私の母に、雀が鷹の爪から逃れてリンボクの中に隠れたら、それは(そこに)敵の獰猛さから助かる望みを見いだす(訳注2)、彼らも同じようなもの、と言ってください。彼らは私たちの庇護を頼ってきたのですから、彼らを行かせるのは決して高潔な行いではないでしょう、近いうちにクリルタイがあるでしょうから、私は自分と一緒に彼らを連れてそれに行きましょう、そして彼らの罪は(我々の)一族、アミール一同同席の場で審理され、それによって彼らはしかるべき処罰を受けるでしょう」
と答えた。何度か急使が送られたが、クデンはすべて同じ論法を用いた。一方、トルキスタンとマーワーラーアンナフルのハキームだったアミール・マスウード=ベクはこういった事を目にして自分の地方に留まることを善しとせず、バトゥ陛下に臣従した。一方、カラ=オグルとエルゲネ=ハトゥンそのほかのチャガタイの妃たちは、クルタク=イリチをアミール・アルグン=アカを一緒に付けてクルクズを逮捕するためにホラーサーンへ派遣した。アミール・アルグン=アカはクルクズを連れてきて処刑すると、クルクズに替えてホラーサーンに送られた。
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原註:
(注3)バトゥのルーシおよび東ヨーロッパ遠征から
(注4)文字通りには「その時」
(注5)10世紀にはヌカン市とタベラン市を含めた全域がトゥースと呼ばれていた。(トゥースの要塞はティムールの死の直後、1405年にはもう再建されていた。それに続く時代、トゥースは普通、メシヘドと並び称される。メシヘドは徐々にその宗教的意義の故に隣接する都市をしのぎ、ホラーサーンの首都となった)(バルトリド「イランの歴史地理概要」70頁)。訳注:バルトリド著作集巻7、p.114
(注6)「サルグゥド」「ホップ」「ワインによる酩酊」(ブダゴフ『トルコ語・タタル語方言比較辞典』巻I、626頁)。
翻訳メモ:
・(訳注1)ウゲデイ(オゴダイ)の妃、ムカ=ハトゥンは、「部族篇」第三章ベクリン部族の項でムカイと書かれている人物。元史巻壱百六表第一の昂(昴)灰二皇后。モゲ皇后のこと。
・(訳注2)リンボク(バラ科サクラ属の常緑小高木。縁に鋭い刺がある)は、例えばイバラのように漠然ととげのある植物を表しているだけかもしれない。この諺は『元朝秘史』にも出ていて、そこでは「幼き小鳥を、はい鷹が叢に追い込まば、叢はそれを救うなり。(『秘史』85:岩波上p.68)」となっている。
・クルクズ(コルグズ)はウィグル人だが、この事件は「グユク=ハン紀」第三部および「部族篇」第三章オングト部族の項にも出ている。更に詳しくはドーソン著・佐口透訳注『モンゴル帝国史4』pp.113-125参照。ドーソンの記事はジュワイニー著『世界征服者の歴史』によっているのでラシードより詳しい。ちなみに、コルクズは、ジュチの息子たちにウィグル文字を教えた人物。
・ここでカラ=オグルと呼ばれているのは、チャガタイ(チャアダイ)の長子ムトゥゲン(モエトゥケン)の子カラ=フレグ。他のところでもたびたびカラ=オグルと書かれている。
・再掲ですがチャアダイ家の系図をば。
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