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2011年4月23日 (土)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(2/7)

 この空位と騒乱の時代、誰もが四方八方に急使を派遣し、自分の所からベラト(注7)と支払命令書(注8)をあちこち送り、誰もがいずれかの陣営とお近づきになろうとあらゆる手段を用いてその(注9)庇護を頼った。常に法の道を(歩み、)毛ほども大法令を犯さなかったソルククタニ=ベギと彼女の息子たちを除いて(皆がこのような有様だった)。一方、トゥラキナ=ハトゥンは、皇子たちとチャガタイの子孫たち、右翼左翼の軍のアミールたち、スルタンたち、マリクたち、高官たち、サドルたちを招聘する急使を世界の東西の国々に派遣し、彼らをクリルタイに招いた。これらの事象が進行している間、闘技場はまだ空いており、グユク=ハンもまだ到着していなかったので(注10)、チンギス=ハンの兄弟、オッチギン=ノヤンは軍事力で無遠慮に王座を奪い取ろうと欲した。この目的のために彼は大軍勢とともにカァンの本営へ進んだ。この出来事に際し、(全軍、全ウルスは)(注)動揺した。トゥラキナ=ハトゥンは(彼に)急使を送り、
「私はあなたの嫁(注12)で、あなたを頼りにしております。この食料と兵装を整えての進軍は何を意味するのです? 全軍、全ウルスが不安を感じております」
と伝えた。そして、常にカァンの傍らにあった彼の息子オタイをメングリ=オグル、孫の……と一緒に、一族の者(全員)と彼の有していた家僕ともどもオッチギンに送り返した。オッチギンは己の企みを後悔して、(誰か)死去(した際に催される)会食の支度という口実を持ち出して取り繕った。この時、グユク=ハンが遠征からイミル河岸の自分の本営へ帰着したとの知らせが届いた。行われたことに対するオッチギンの悔悟の念はより強くなり、彼は自分の場所、自分のユルトへ帰った。結局のところ、およそ三年間ハン位はトゥラキナ=ハトゥンの権力下、保護下にあった。彼女から国家の布告が出、彼女が全ての高官を更迭した。すべてこれ、皇子たちが集参しなかったためにクリルタイが開催されなかったからである。そして、グユク=ハンは母のもとに到着しても、彼は全く国事の運営に取りかからなかった。息子によってハン(位)が確立するまで、従来通りトゥラキナ=ハトゥンが統治を行っていた。2~3か月後にトゥラキナ=ハトゥンは逝去した。

 

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原註:

(注7)割付証書、地方で支払われなければならない手形。訳注:『モンゴル帝国史』ではバラートと表記されている。『モンゴル帝国史6』p.86~あたりも参照。

(注8)V. バルトリド「アニーのモスク壁上のペルシャ語銘文」25-26頁参照。訳注:バルトリドの論文は、バルトリドの著作集巻4に収録されている「Персидская надпись на стене Анийской мечети Мануче(アニー〔遺跡〕マヌチェ・モスク壁上のペルシャ語銘文)」335頁~336頁に当たるようだ。

(注9)文字通りには「その方に」

(注10)バトゥとの遠征から。

(注11)すなわち、全モンゴル人。

(注12)「(兄・弟の)妻」または「息子の妻、嫁」、文字通りには「私たち、あなたの嫁は」

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