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2011年4月25日 (月)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(4/7)

グユク=ハンのハンへの即位についての物語。

 (ウゲデイ=)カァンが(まだ)存命のころ、皇位継承者、代理に自分の三番目の息子で、トゥラキナ=ハトゥンから生まれたクチュクを選んだ。(しかし、)彼はまだカァンの存命中に逝去した。だが、カァンは彼を誰よりも愛していたので、たいへん才があり賢かった彼の長子シラムンを自分の本営で養育し、彼が皇位継承者、(彼の)代理になるだろうと言った。彼が他界したその年、彼はグユク=ハンの召喚状を携えた急使を送った。グユク=ハンは命令に従い、(ダシト=イ・キプチャク遠征から)戻った。彼の到着より先に避けられない運命が到来し、父と息子にお互いお顔をじっくり見て(自分の)両目を喜ばすわずかな時間も与えなかった。グユク=ハンはこの出来事を知らされて、速やかにイミルに到着し、そこから父の本営に向かった。彼の到着とともに(権力への)飽くなき希求はやんだ。

 国家の隅々まで、近い〔地方〕、遠い地方へ、皇子たち、アミールたち、マリクたち、土地台帳編纂者たちを招聘召集する使者が送られたので、彼らは全員服従し、命令に従うために自分の住まいや生まれ故郷から出発した。そして、ヒジュラ暦643年ラビーII月(西暦1245年8月26日~9月23日)にあたる馬の年の春が訪れ、右翼と左翼の皇子やアミールたちが各々自らの部下や随員を伴って到着した。彼らは全員……=ノール(注15)の地に参集した。さる事が原因で彼らに侮辱され、健康が芳しくないことと足の病気を引き合いに出して(クリルタイへの)参加を避けたバトゥを除いて。誰よりも早く到着したのは、盛装であらゆる壮麗さに包まれたソルククタニ=ベギと彼女の息子たちであった。東からはオッチギンが80人の息子たち(注16)と一緒に、イルヂダイもその他の伯父たちもいとこたちも来た。チャガタイの本営からはカラ(=フラグゥ)、イィスゥ(=メングゥ)、ブリ、バイダル、イィスン=ブカおよびチャガタイのその他の息子たち、孫たち、(ヂュチのウルスの)本営からはバトゥが自分の兄弟オルダ、シェイバン、ベルケ、ベルケチャル、タングゥトそしてトゥカ=ティムルを派遣した。皇子たちと一緒にいずれかの陣営にゆかりのある有力なノヨンたち、大アミールたちが来た。ヒタイからはアミールたちと官人たち、トルキスタンとマーワーラーアンナフルからはアミール・マスウド=ベクと彼の同意を得た(注17)それらの国の高官たち、ホラーサーンからはアミール・アルグンがその土地およびイラク、ルゥル、シルワン、アゼルバイジャンの高官と有力な人物たちと一緒に、ルームからはスルタン・ルクン=アッ=ディーン、グルジスタンからは両ダヴド、アレッポからはその地の領主の兄弟、モスルからはスルタン・バドル=アッ=ディーン・ルゥルゥの使節、バグダードのハリーファの首都からは最高位のカーズィ・ファフル=アッ=ディーンとフランク人たち、ファルス、ケルマンの使節たち、アラムートの(支配者)アラー=アッ=ディーンからはクヒスタンのムフタシャム、シハブ=アッ=ディーンとシャムス=アッ=ディーン(が来た)。これらの人々はすべて、各々その国にみあうだけの荷を持ち、贈り物を携えて来た。彼らのためにおよそ二千の天幕が用意された。あまりの人の多さに本営の周辺には滞在可能な場所がなかった。食料と飲料(の価格)は、著しく上昇し(、決して見つけることができなかっ)た。ハン位について、皇子たちとアミールたちは(このように)言った。
「チンギス=ハンがカァンにご指名になったクデンは逝去し(注18)、一方、カァン遺言の(後継者)シラムンは成年に達していないのだから、カァンの長子グユク=ハンに委ねるのが最善であろう」。
(グユク=ハンは)戦勝と軍功をもって知られていたので、トゥラキナ=ハトゥンが彼の側を支持し、アミールたちの大多数は彼女に同意した。議論の末(皆は)彼を(王座に)推戴する事に同意したが、彼は慣習通り断り、(これを)各々の皇子に譲って、病気と身体が丈夫でないことを引き合いに出した。アミールたちの切なる要請の後で彼は言った。
「私の後(のカァン位は)私の一族のものであると認められるのであれば、私は同意しよう」。
全員一致で「汝の一族から、脂や草に包まれた肉の、犬や牡牛が食わない一片でも残っているうちは、我々はハンの称号を他の誰にも渡さないであろう(訳注3)」という書面による宣誓を授けた。シャマンの祈祷を終えてから(注19)、皇子全員が帽子を取り、腰帯をほどいて彼を皇帝の玉座に座らせた。(これが行われたのは)モリン=イル、すなわち馬の年であり、ヒジュラ暦643年ラビーII(の月)(西暦1245年9月24日~10月23日)に当たる。

 

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原註:

(注15)訳注:『モンゴル帝国史2』p.222の注参照。

(注16)「皇子たち」かもしれない

(注17)「と彼と合意した」。

(注18)BI写本によると「すっかり健康というわけではない」

(注19)「カムの儀礼を行うこと」。

翻訳メモ:

・何かを勧められた時いったん断るのは、日本人的に考えても普通なのでスルーしてしまいそうになるが、ラシードがここでわざわざ断っているのは、イラン人的には奇異なことだからなのだろうか。中国の史書にも他の遊牧の民、例えば突厥でもカガンに推戴される時に必ず何度か断る事をわざわざ書いてあるところを見ると、我々にとっては自然なことでも他所から見ると不思議なのかも。

・(訳注3)「脂や草に……」という言い回しは、『元朝秘史』にも「莎草に包みても牛に食われざる、脂肉に包みても犬に食われざる如きの生まるれば……(『秘史』255、岩波下p.180)」というオゴデイがチンギスから後継者に指名された時のセリフ中に出てくる。

・この項(「グユク=ハンのハンへの即位についての物語。」)は、ドーソン著・佐口透訳『モンゴル帝国史2』pp.221-232にあたる。

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コメント

あー、でも、中国でも謙遜はあるなぁ。
水滸伝なんかで、棟梁や役職に押された時は「いやいや私などでは・・・」と断って、周りに懇願されて立つ方式を取りますし。
まぁ宋江が譲り過剰なんだけど。

投稿: 島崎 | 2011年4月27日 (水) 13時30分

思いっきり谷峰の顔が浮かびました。水滸伝の人ですよね。水滸伝は張徹の映画(丹波哲郎が出てるヤツ)見たことある程度の理解なのでイロイロ間違ってたらすいません。

投稿: 雪豹 | 2011年4月27日 (水) 19時41分

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