« ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(4/7) | トップページ | ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(6/7) »

2011年4月26日 (火)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(5/7)

 慣例に従い皆酒杯を取り、一週間大酒宴をして、(酒盛りをし)終わると、彼は多くの恩恵をハトゥンたち、皇子たち、テュメンの長のアミールたち、千の長たち、百の長たち、十の長たちに分け与えた。それから、彼らは国家の重要事と敵への遠征事業の整理に取りかかった。最初に、ファティマ=ハトゥンを裁き、第二にオッチギンの案件の調査に取りかかって詳しく問いただしたが、この(件の)調査は極めて慎重な扱いを要し、(これは)近しい親族のゆえに誰にでも可能なことではなかった。メングゥ=カァンとオルダが調査を行い、他の者は誰一人として入り込むことを許さなかった。審理の終了後、何人かのアミールが(オッチギンを)死刑に処した。

 カラ=オグルはチャガタイの後継者であって、(チャガタイの)直系の息子であったイィスゥ=メングゥを(ウルスの国事に)参加させなかった。グユク=ハンは彼と有していた友情に従って言った。
「息子が生きているのに、いかに孫を後継者にできようか?」。
そしてチャガタイの地位はイィスゥ=メングゥにふさわしいと認め、このことについて彼の権力を強化した。(カァンの)死後、皇子たちは各々が不適切な行為を行い、地方のベラトを書き、誰にでもパイザを与えたので、(カァンは)このことについて(彼らの)責任を問われたが、それは法令にも習慣にも沿っていなかったからであり、彼らは面目を失って当惑から頭を垂れた。彼らは人々から(彼らが交付した)パイザとヤルリクを取り返し、彼の前に置いた。「己についての書き付けを読め、それは汝にとって汝の精算者として充分である」(注20)。ソルククタニ=ベギと彼女の息子たちは満ち足りた様子で堂々としており、誇らしげであった、なぜなら彼らに対してはヤサの侵犯についての告発がなにもなかったからである。グユク=ハンは他の者へのお言葉の中でそれを例に挙げて彼らを褒め、そして他の者へは軽侮をもって接した。彼は父の法をすべて確認し、カァンのアル=タムガで飾られた各ヤルリクが彼への報告なしに署名されるよう命令した。この後、彼は国々、地方地方に部隊を定めて(それらを)派遣した。スベダイ=バハドゥルとチャガン=ノヨンを彼は無数の部隊とともにヒタイ国境とマンジ周辺に送り、イルヂダイを与えられた部隊とともに彼は西に派遣して、イランの地に駐留している軍隊、タジク人から、(各)十人から二(人)ずつを遠征に出し、異端者たちを手始めに敵対的な地方を征服するよう命令した。イルヂダイへその部隊と人々すべてを任せたが、彼自身も続いて出発する事を決定した。とりわけ、ルーム、グルジア、モスル、アレッポおよびディヤルベクルの国事を彼はその管理に引き渡したが、それはその地のハキームたちが彼以前に徴税の責任を負っていて、誰もこれ(この件)にもはや入り込むことができなかったからである。トゥラキナ=ハトゥンがハキームとしてヒタイに派遣したアブド=アル=ラフマンを彼は処刑し、ヒタイの国家はサーヒブ・ヤラワーチに与えた。トルキスタンとマーワーラーアンナフルを彼はアミール・マスウド=ベクに委ね、ホラーサーン、イラク、アゼルバイジャン、シルワン、ルゥル、ケルマン、グルジスタンとヒンドゥスタンの国はアミール・アルグン=アカに託した。彼らそれぞれの配下だったアミールたち、マリクたちすべてに、彼はヤルリクとパイザを与え、彼らに国事を任せた。ルームの国家(サルタナット)を彼はスルタン・ルクン=アッ=ディーンに与え、彼の兄弟は辞めさせた。女帝の息子のダヴドをもう一人のダヴドに従わせた。バグダードの使節の話に(答えて)彼はハリーファに威嚇と警告を送った。それは、ヂュルマグンの息子(シラムン)が彼にもたらした苦情が原因であり、同じく彼はありとあらゆる乱暴な言葉でアラムートの使節たちがもたらした書簡に返事を書いた。チンカイを彼はかわいがってワジールの職に取り立て、高官全員を元に戻した。以上である!

 

                        ★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

 

原註:

(注20)アル=クルアーン17章15節。訳注:アル・クルアーン17章14節「あなたがたの記録を読みなさい。今日こそは、あなた自身が自分の精算者である」

翻訳メモ:

・オッチギンの処置の部分、ドーソンは「この審問はオトチギンの部下の多数の将校たちを処刑することによって終わった。(『モンゴル帝国史2』p.228)」としていてヴェルホフスキーの訳と異なる。それはそもそもラシードの原文がどちらともとれるものだからだそうだ。詳しくは、堀江雅明「テムゲ=オッチギンとその子孫」(東洋史苑 第24・25合併号 昭和60年3月 龍谷大学東洋史学研究会)参照。堀江氏も、皇族を普通のモンゴル人が手に掛けられるはずはないからとドーソンと同じように解釈している。でも、その説明を読めば読むほど、オッチギンって刑死してるよなー、って私は思った。なのでヴェルホフスキーに一票。

・アル=タムガについては、イブン・バットゥータ著・家島彦一訳『大旅行記4』p.241注91参照。

・アブドゥル=ラフマンについては、編集・佐口透『東西文明の交流4 モンゴル帝国と西洋』(平凡社1970年)pp.263-266参照。

|

« ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(4/7) | トップページ | ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(6/7) »

モンゴル」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

コメント

スブタイ、まだ働くのか・・・ご苦労様ですご老体。

投稿: 島崎 | 2011年4月27日 (水) 13時36分

「隠居」という言葉はないみたいですよね。まぁ、グユクより先になくなっちゃうんですが……

投稿: 雪豹 | 2011年4月27日 (水) 19時32分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/198713/51466991

この記事へのトラックバック一覧です: ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(5/7):

« ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(4/7) | トップページ | ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(6/7) »