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2011年4月28日 (木)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(7/7)

 グユク=ハンの死後全ての道が封鎖され、人の多いところであろうと荒野であろうと(命令が)捉えた所に誰もが留まるよう命令が出された。オグル=カイミシの指示により、グユク=ハンの柩は彼の本営のあったイミルへ運ばれた。ソルククタニ=ベギは慣例に従って彼女へ弔辞と衣服、ボフタグ(注24)を送った。バトゥも同じように彼女をいたわり友誼を示した。彼は言った。
「国事は先例に基づき、チンカイと高官らの助言に従ってオグル=カイミシが管理すべきだ、彼らをないがしろにすべきでない、なぜなら私は老人で病弱、足の病のため〔この〕場から動く事ができないからだ、あなた方若い親族は全員がそこで上手く苦境を切り抜け、必要なことに着手せよ」。
しかし、商人との取引を除きそれ以上の事は何一つ行われず、オグル=カイミシは大部分の時間をシャマンたちと相対して過ごし、彼らの妄想と虚構に時間を取られていた、ホジャとナグゥのもとに、母への反発から(自分の)二つの御所が生じた、その結果、一箇所に三人の支配者が現れたのである。他方、皇子たちは自分勝手に証書を書き、命令を公布した。母と息子たち、そのほか(の皇子たち)の間の不一致、矛盾した思わくや指令が原因で事態は無秩序に至った。アミール・チンカイは何をなすべきか知らなかった……誰も彼の言葉や助言を聞かなかった。彼らの親族のうち、ソルククタニ=ベギは教示と忠告を送ったが、ハンの称号が幸ある君主メングゥ=カァンに確立し、社会状勢が正常化するまで、皇子たち(注25)は幼児のように気ままに振る舞い、イィスゥ=メングゥの支持を頼みに放埒な行為をしていた。(ここに)記されたグユク=ハンの(生涯の)出来事に関する物語とは、このようなものである。以上である!

 

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原註:

(注24)プラノ・カルピニとルブルクによって記述されている既婚女性の頭飾り。ルブルクはそれを「ボッカ」と呼んでいる。プラノ・カルピニ「モンゴル人の歴史」とルブルク「東方諸国への旅」(A. マレイン訳サンクトペテルブルグ1911年6,77,181,293頁)、またBretschneider. Mediaeval Researches from Eastern Asiatic Sources, t. I. London, 1888, 53頁参照。訳注:護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』(桃源社)「プラノ-カルピニのジョン修道士の旅行記」p.9、「ルブルクのウィリアム修道士の旅行記」p.150

(注25)文字通りには「息子たち」。

翻訳メモ:

・「グユク=ハンの御代の終わりに関する物語……」は、ドーソン著・佐口透訳『モンゴル帝国史2』pp.257-258、p.266に当たる。

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