« ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(7/7) | トップページ | ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第三部(2/2) »

2011年4月29日 (金)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第三部(1/2)

第3部
グユク=ハンについての叙述。彼の賞讃すべき有様と性質について。彼の述べた見解について。彼の下した良い決定と法律について。彼の時代に起こった事件と出来事で、前の二部に入らず、様々な書物から、および様々な人々から別々に知られたものについて。


ヒジュラ暦639年シャアバーン月(西暦1242年2月4日~3月4日)に当たるバルス=イル、すなわち虎の年の初めから、ヒジュラ暦643年ラマザーン(月(西暦1246年1月20日~2月18日)にあたる)モリン=イル(、すなわち馬の年)の終わりまでの五年間、トゥラキナ=ハトゥンとグユク=ハンの同時代人であったヒタイとマチンの君主、イラン、ミスル、シャム、マグリブのアミールたち、ハリーファたち、スルタンたち、マリクたち、アターベクたちの年代記。簡潔な叙述で。



この5年間に存在したヒタイとマチンの君主たちの年代記。

 ヒタイ国は、この期間に残らずチンギス=ハン家の支配下になった。地方の君主の最後の者は、承麟(注26)で、ウゲデイ=カァンの御代のはじめに降され、この部族の政権は途絶えた。一方、上記の期間のマチンの君主は理宗(注27)で、彼の御代の長さは、このような配列である。
 (全部で)41年。過ぎた7年の他に29年、残り5年。


ホラーサーンのアミールたちの年代記。

 ホラーサーンのハキームだったアミール・クルクズは、何らかの金銭がもとであるチャガタイ家の者と口論した時に彼が不作法な言葉を口にした事が原因で、カァンの法に従い、(既に)彼の紀に書かれているように、トゥースで捕縛され、枷をはめられて運び去られた。彼らがそこへ到着したとき、カァンは既に逝去しており、彼は(ウルグ・イフの本営へ)運び去られた。アミールたちが彼の尋問を行った。彼は
「もし、あなた達が私の事件を終わらせることができるなら私は話すだろうが、もしそうでないなら、黙った方がよい」
と言った。このため、彼の件は中断されたまま、彼はトゥラキナ=ハトゥンの本営へ届けられた。チンカイは(ある時)そこから逃走しており、国事に携わっていた他のアミールたちにクルクズはなじみがなかったうえに、(自分の事件を)よりよい方に決着させるためのいかなる財産も持ちあわせていなかった。彼はチャガタイの本営へ届けられ、その罪が立証された後、口を石で一杯にされて殺された。晩年、彼はムスリムになった。ホラーサーンのハキームとしてアミール・アルグン=アカが派遣され、(シャラフ=アッ=ディーン・ホラズミーを彼のナイーブにした)。以上である!


ハリーファたちの年代記。

 バグダードでこの時代のはじめにアッバス一族出身のハリーファだったのは、アル=ムスタンスィル=ビッラーであった。バイヂュ=ノヨンの命令に従い、モンゴル軍は、個別の部隊がバグダード国境へ襲撃を行った。彼らはアルベラを包囲して戦闘によってそれを占領した。街の住人は城塞に立てこもり頑強に戦った。しかし城塞には水がなかったので多くの人々が死に、あまりに(多数だったので)埋葬する場所がなく(屍体を)火で焼くほどであった。

 モンゴルたちは壁の上に投石器を運び、街を破壊した。ハリーファは(この)知らせを受け取ると、彼はそこにシャムス=アッ=ディーン・アルスラン=テギンを3千騎とともに救援に遣わした。モンゴルは彼の到着を知った。彼らは突然、退去して去った。ハリーファは、メッカ巡礼と聖戦布告のいずれがよりふさわしいか、ファキーフたちの見解を求めた。全員一致で聖戦の布告(の方が良いという)決定を行った。

 (ハリーファは)この年、ハッジに行かないよう命じた(注28)。ウラマー(注29)とファキーフ(注30)、貴族と平民、地元の者と外国人……(皆が)武器を持った動作の仕方の学習と弓の射撃訓練に取りかかった。(ハリーファは)バグダードの壕と要塞の壁の再建を命じた。要塞の壁の上に投石器を据え付けた。モンゴルは再度アルベラへ突進した。土地の住民たちは不安になった。アミール・アルスラン=テギンは、彼ら(モンゴル)の到来を予想して正規軍とともに街を守っていた。モンゴルは(このことを)知ると、彼らはそこから向きを変え、バグダードの周辺や界隈の側に進み、(そこで)殺人と掠奪を行って捕虜を連れ去った。ハティブ・シャラフ=アッ=ディーン・イクバル=イ=シラジは、人々が出撃するまで彼らにジハード(注31)を呼びかけた。ヂャマル=アッ=ディーン・クシ=ティムルが部隊の指揮官であり、ヂャバール=イ=ハムリーン(注32)で(両)軍は対戦した。ハリーファ・ムスタンスィルはバグダード市から出、普通の人々にもわかるよう呼びかけ、説法で人々に訴えた。
「全ての方面、〔あらゆる〕方角から我が国に敵・信仰へ刃向かう者どもが突進してきたが、私は彼らを撃退するために、この剣以外に(何も)持たずに、自ら彼らと戦いに行くためにここにいるのである」。

 マリクたちとアミールたちは、
「ハリーファ自らをわずらわす必要はありません。私たち(あなたの)奴隷が行きましょう」
と言った。そして彼ら全員が出かけ、たいへん勇敢に戦った。モンゴルは敗走し、ヂャバール=イ=ハムリーンから退却した。トルコ人とハリーファのグリャムは彼らの後を追い、大量のモンゴル人を殺してイルビルと諸郡の捕虜を回収した。

 ヒジュラ暦640年ジュマーダーIIの月10(日)金曜日(西暦1242年12月26日)、正統派のアミール(注33)、アル=ムスタンスィル=ビッラーヒーは(別の世界へ)去り、そして彼の地位、カリフ(の位)に即位したのは彼の息子、アル=ムスタースィム=ビッラーヒーである。以上である!

 

                        ★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

 

原註:

(注26)訳注:底本ではアラビア文字の綴りが示されているが読めないので……ロシア語では「ショウ=スュイ」と書かれている。

(注27)訳注:同上、「リ=ズン」。

(注28)メッカ巡礼。

(注29)「神学者」。

(注30)ムスリムの法学者、イスラム法典に通暁した人。

(注31)「信仰のための戦争」

(注32)モスルの南でチグリス川によって横切られる山脈。Le Strange. Baghdad during the Abbasid Caliphate. Oxforde, MDCCC, 9頁参照。

(注33)すなわちハリーファ。

翻訳メモ:

・チャガタイ家の本営が「ウルグ・イフ(ウルグ・エヴの訛り)」と呼ばれていた、というのはジュワイニーの情報。

・グリャム(グラーム)……アラブのアッバス朝(750~1258)における常設の騎馬親衛隊。文字通りの意味は、若者、奴隷。

・ハリーファたちの年代記は、ドーソン『モンゴル帝国史4』pp.76-78.参照。

|

« ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(7/7) | トップページ | ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第三部(2/2) »

モンゴル」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/198713/51473999

この記事へのトラックバック一覧です: ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第三部(1/2) :

« ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(7/7) | トップページ | ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第三部(2/2) »