ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第三部(2/2)
スルタンたちの年代記。
ルームの統治者は、スルタン・イッズ=アッ=ディーンであったが、彼の兄弟ルクン=アッ=ディーンは陛下の許へ赴き、メングゥ=カァンの即位後に統治権は彼に与えられ、彼の兄弟は辞めさせられた。
一方、モスルのスルタンだったのはバドル=アッ=ディーン・ルゥルゥ(注34)であり、彼の事業は絶頂期(を迎えていた)。彼は陛下に使節を派遣した。そしてメングゥ=カァンが即位したとき、彼はその使節を最大の敬意を持って送り返し、スルタン・バドル=アッ=ディーン・ルゥルゥに目を掛けて(彼に)ヤルリクとパイザを送った。まさにこの時期にスルタン・バドル=アッ=ディーンはニスィビンを占領したのである。
一方、ミスルのスルタンはメリク・サリフ・ナヂム=アッ=ディーン・アイユブ・イブン・アル=カミリ・アル=アヂルであった。彼は何らかの慢性の病を患っており、絶えずフランク人たちと戦って……(注35)。
一方、ケルマンのスルタンはルクン=アッ=ディーン(だったが)、彼は法に基づく決定を行い公平な態度を示していたので、何一つ普通でない出来事は起こらなかった。
一方、スィスタンのメリクはシャムス=アッ=ディーン・クルトだった。
メリクたちとアターベクたちの年代記。
マーザンダラーンでは……シャー……(注36)。一方、ディヤルベクルとシリアでは、ヒジュラ暦 年(西暦1241年7月12日~1242年6月2日)、サィイッド・タヂ=アッ=ディーン・ムハッメド・サライーをイルビリのハキームに任命した。
そしてその年、ドヴレトシャーの息子で、スルタン・ヂェラール=アッ=ディーンのアミール(の一人)であり、逃走したホレズム軍の残兵の頭目だったバラカト=ハンが、アレッポの領主の母であったメリク・アディルの娘に求婚した。彼(メリク・アディル)は、使節に侮辱を与えるよう命令した。バラカト=ハンは部隊を招集して、それらの地方へ出発した。アレッポの部隊は、ミンバヂェにも(向けて)出発し、(彼と)戦闘を行った。ホレズム人はアレッポ人を撃破し殺人と掠奪を行い、捕虜を獲った。この後、アレッポの領主とヒムスの領主は連合してホレズム人たちと戦った。一方面たりとて敗北をこうむらなかった。そしてこの期間に、ケルマンにいたホレズム人の一部が他のホレズム人たちと一つになって……。バラカト=ハンの息子はバグダードのハリーファの許に到着し、ムヂャヒド=アッ=ディーン・アイベク・ダワートダール(注37)の仲間に合流した。
そしてヒジュラ暦640年(西暦1242年7月1日~1243年5月22日)ホレズム人とアレッポの住人の間でもう一度会戦が行われた。ホレズム人は破られ、女性、子供、物資や駄獣を置き去りにしたので、アレッポ人は大きな戦利品を獲た。
一方、42年に(西暦1244年6月9日~1245年4月30日)モンゴル軍は再びディヤルベクルにやって来て、彼らはルハとハッラーンを占領し、マルディンは和平を結んで獲得した。シハーブ=アッ=ディーン・ガーズィ(注38)はミスルに逃亡し、そこに入って避難所を見つけた。
一方、ファルスのハキームだったのは、アターベク・アブゥ=ベクルで、彼は統治に携わり国事を運営していた。ともあれ、アッラーはもっと良くご存じである。
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原註:
(注34)奴隷でモスルのザンギー朝最後のワジール
(注35)フレーズは終わっていない。見たところ、数語の欠落がある。
(注36)全ての写本に欠落がある。
(注37)彼と彼に関連するバグダードでの出来事については、ラシード=アッ=ディーン巻III、33、36、37、41頁参照。訳注:『集史』「フレグ=ハン紀」“バグダードでの暴動の発生、ダワートダールとワズィールの間の対立の発生、バグダードのハリーファの不幸の始まり”の項など。
(注38)シハーブ=アッ=ディーン……後のムエザ=アッ=ディーン・ムハッメド・グーリィ(ヒジュラ暦602年に殺害)……グール朝第6代君主。
翻訳メモ:
・井谷鋼造「モンゴル侵入直前のルーム-バーバーの反乱をめぐって-」『オリエント』第30巻第1号 1987年9月30日発行p.14参照。
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