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2011年4月30日 (土)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第三部(2/2)

スルタンたちの年代記。

 ルームの統治者は、スルタン・イッズ=アッ=ディーンであったが、彼の兄弟ルクン=アッ=ディーンは陛下の許へ赴き、メングゥ=カァンの即位後に統治権は彼に与えられ、彼の兄弟は辞めさせられた。

 一方、モスルのスルタンだったのはバドル=アッ=ディーン・ルゥルゥ(注34)であり、彼の事業は絶頂期(を迎えていた)。彼は陛下に使節を派遣した。そしてメングゥ=カァンが即位したとき、彼はその使節を最大の敬意を持って送り返し、スルタン・バドル=アッ=ディーン・ルゥルゥに目を掛けて(彼に)ヤルリクとパイザを送った。まさにこの時期にスルタン・バドル=アッ=ディーンはニスィビンを占領したのである。

 一方、ミスルのスルタンはメリク・サリフ・ナヂム=アッ=ディーン・アイユブ・イブン・アル=カミリ・アル=アヂルであった。彼は何らかの慢性の病を患っており、絶えずフランク人たちと戦って……(注35)

 一方、ケルマンのスルタンはルクン=アッ=ディーン(だったが)、彼は法に基づく決定を行い公平な態度を示していたので、何一つ普通でない出来事は起こらなかった。

 一方、スィスタンのメリクはシャムス=アッ=ディーン・クルトだった。


メリクたちとアターベクたちの年代記。

 マーザンダラーンでは……シャー……(注36)。一方、ディヤルベクルとシリアでは、ヒジュラ暦 年(西暦1241年7月12日~1242年6月2日)、サィイッド・タヂ=アッ=ディーン・ムハッメド・サライーをイルビリのハキームに任命した。
 そしてその年、ドヴレトシャーの息子で、スルタン・ヂェラール=アッ=ディーンのアミール(の一人)であり、逃走したホレズム軍の残兵の頭目だったバラカト=ハンが、アレッポの領主の母であったメリク・アディルの娘に求婚した。彼(メリク・アディル)は、使節に侮辱を与えるよう命令した。バラカト=ハンは部隊を招集して、それらの地方へ出発した。アレッポの部隊は、ミンバヂェにも(向けて)出発し、(彼と)戦闘を行った。ホレズム人はアレッポ人を撃破し殺人と掠奪を行い、捕虜を獲った。この後、アレッポの領主とヒムスの領主は連合してホレズム人たちと戦った。一方面たりとて敗北をこうむらなかった。そしてこの期間に、ケルマンにいたホレズム人の一部が他のホレズム人たちと一つになって……。バラカト=ハンの息子はバグダードのハリーファの許に到着し、ムヂャヒド=アッ=ディーン・アイベク・ダワートダール(注37)の仲間に合流した。
 そしてヒジュラ暦640年(西暦1242年7月1日~1243年5月22日)ホレズム人とアレッポの住人の間でもう一度会戦が行われた。ホレズム人は破られ、女性、子供、物資や駄獣を置き去りにしたので、アレッポ人は大きな戦利品を獲た。
 一方、42年に(西暦1244年6月9日~1245年4月30日)モンゴル軍は再びディヤルベクルにやって来て、彼らはルハとハッラーンを占領し、マルディンは和平を結んで獲得した。シハーブ=アッ=ディーン・ガーズィ(注38)はミスルに逃亡し、そこに入って避難所を見つけた。

 一方、ファルスのハキームだったのは、アターベク・アブゥ=ベクルで、彼は統治に携わり国事を運営していた。ともあれ、アッラーはもっと良くご存じである。

 

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原註:

(注34)奴隷でモスルのザンギー朝最後のワジール

(注35)フレーズは終わっていない。見たところ、数語の欠落がある。

(注36)全ての写本に欠落がある。

(注37)彼と彼に関連するバグダードでの出来事については、ラシード=アッ=ディーン巻III、33、36、37、41頁参照。訳注:『集史』「フレグ=ハン紀」“バグダードでの暴動の発生、ダワートダールとワズィールの間の対立の発生、バグダードのハリーファの不幸の始まり”の項など。

(注38)シハーブ=アッ=ディーン……後のムエザ=アッ=ディーン・ムハッメド・グーリィ(ヒジュラ暦602年に殺害)……グール朝第6代君主。


翻訳メモ:

・井谷鋼造「モンゴル侵入直前のルーム-バーバーの反乱をめぐって-」『オリエント』第30巻第1号 1987年9月30日発行p.14参照。

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2011年4月29日 (金)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第三部(1/2)

第3部
グユク=ハンについての叙述。彼の賞讃すべき有様と性質について。彼の述べた見解について。彼の下した良い決定と法律について。彼の時代に起こった事件と出来事で、前の二部に入らず、様々な書物から、および様々な人々から別々に知られたものについて。


ヒジュラ暦639年シャアバーン月(西暦1242年2月4日~3月4日)に当たるバルス=イル、すなわち虎の年の初めから、ヒジュラ暦643年ラマザーン(月(西暦1246年1月20日~2月18日)にあたる)モリン=イル(、すなわち馬の年)の終わりまでの五年間、トゥラキナ=ハトゥンとグユク=ハンの同時代人であったヒタイとマチンの君主、イラン、ミスル、シャム、マグリブのアミールたち、ハリーファたち、スルタンたち、マリクたち、アターベクたちの年代記。簡潔な叙述で。



この5年間に存在したヒタイとマチンの君主たちの年代記。

 ヒタイ国は、この期間に残らずチンギス=ハン家の支配下になった。地方の君主の最後の者は、承麟(注26)で、ウゲデイ=カァンの御代のはじめに降され、この部族の政権は途絶えた。一方、上記の期間のマチンの君主は理宗(注27)で、彼の御代の長さは、このような配列である。
 (全部で)41年。過ぎた7年の他に29年、残り5年。


ホラーサーンのアミールたちの年代記。

 ホラーサーンのハキームだったアミール・クルクズは、何らかの金銭がもとであるチャガタイ家の者と口論した時に彼が不作法な言葉を口にした事が原因で、カァンの法に従い、(既に)彼の紀に書かれているように、トゥースで捕縛され、枷をはめられて運び去られた。彼らがそこへ到着したとき、カァンは既に逝去しており、彼は(ウルグ・イフの本営へ)運び去られた。アミールたちが彼の尋問を行った。彼は
「もし、あなた達が私の事件を終わらせることができるなら私は話すだろうが、もしそうでないなら、黙った方がよい」
と言った。このため、彼の件は中断されたまま、彼はトゥラキナ=ハトゥンの本営へ届けられた。チンカイは(ある時)そこから逃走しており、国事に携わっていた他のアミールたちにクルクズはなじみがなかったうえに、(自分の事件を)よりよい方に決着させるためのいかなる財産も持ちあわせていなかった。彼はチャガタイの本営へ届けられ、その罪が立証された後、口を石で一杯にされて殺された。晩年、彼はムスリムになった。ホラーサーンのハキームとしてアミール・アルグン=アカが派遣され、(シャラフ=アッ=ディーン・ホラズミーを彼のナイーブにした)。以上である!


ハリーファたちの年代記。

 バグダードでこの時代のはじめにアッバス一族出身のハリーファだったのは、アル=ムスタンスィル=ビッラーであった。バイヂュ=ノヨンの命令に従い、モンゴル軍は、個別の部隊がバグダード国境へ襲撃を行った。彼らはアルベラを包囲して戦闘によってそれを占領した。街の住人は城塞に立てこもり頑強に戦った。しかし城塞には水がなかったので多くの人々が死に、あまりに(多数だったので)埋葬する場所がなく(屍体を)火で焼くほどであった。

 モンゴルたちは壁の上に投石器を運び、街を破壊した。ハリーファは(この)知らせを受け取ると、彼はそこにシャムス=アッ=ディーン・アルスラン=テギンを3千騎とともに救援に遣わした。モンゴルは彼の到着を知った。彼らは突然、退去して去った。ハリーファは、メッカ巡礼と聖戦布告のいずれがよりふさわしいか、ファキーフたちの見解を求めた。全員一致で聖戦の布告(の方が良いという)決定を行った。

 (ハリーファは)この年、ハッジに行かないよう命じた(注28)。ウラマー(注29)とファキーフ(注30)、貴族と平民、地元の者と外国人……(皆が)武器を持った動作の仕方の学習と弓の射撃訓練に取りかかった。(ハリーファは)バグダードの壕と要塞の壁の再建を命じた。要塞の壁の上に投石器を据え付けた。モンゴルは再度アルベラへ突進した。土地の住民たちは不安になった。アミール・アルスラン=テギンは、彼ら(モンゴル)の到来を予想して正規軍とともに街を守っていた。モンゴルは(このことを)知ると、彼らはそこから向きを変え、バグダードの周辺や界隈の側に進み、(そこで)殺人と掠奪を行って捕虜を連れ去った。ハティブ・シャラフ=アッ=ディーン・イクバル=イ=シラジは、人々が出撃するまで彼らにジハード(注31)を呼びかけた。ヂャマル=アッ=ディーン・クシ=ティムルが部隊の指揮官であり、ヂャバール=イ=ハムリーン(注32)で(両)軍は対戦した。ハリーファ・ムスタンスィルはバグダード市から出、普通の人々にもわかるよう呼びかけ、説法で人々に訴えた。
「全ての方面、〔あらゆる〕方角から我が国に敵・信仰へ刃向かう者どもが突進してきたが、私は彼らを撃退するために、この剣以外に(何も)持たずに、自ら彼らと戦いに行くためにここにいるのである」。

 マリクたちとアミールたちは、
「ハリーファ自らをわずらわす必要はありません。私たち(あなたの)奴隷が行きましょう」
と言った。そして彼ら全員が出かけ、たいへん勇敢に戦った。モンゴルは敗走し、ヂャバール=イ=ハムリーンから退却した。トルコ人とハリーファのグリャムは彼らの後を追い、大量のモンゴル人を殺してイルビルと諸郡の捕虜を回収した。

 ヒジュラ暦640年ジュマーダーIIの月10(日)金曜日(西暦1242年12月26日)、正統派のアミール(注33)、アル=ムスタンスィル=ビッラーヒーは(別の世界へ)去り、そして彼の地位、カリフ(の位)に即位したのは彼の息子、アル=ムスタースィム=ビッラーヒーである。以上である!

 

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原註:

(注26)訳注:底本ではアラビア文字の綴りが示されているが読めないので……ロシア語では「ショウ=スュイ」と書かれている。

(注27)訳注:同上、「リ=ズン」。

(注28)メッカ巡礼。

(注29)「神学者」。

(注30)ムスリムの法学者、イスラム法典に通暁した人。

(注31)「信仰のための戦争」

(注32)モスルの南でチグリス川によって横切られる山脈。Le Strange. Baghdad during the Abbasid Caliphate. Oxforde, MDCCC, 9頁参照。

(注33)すなわちハリーファ。

翻訳メモ:

・チャガタイ家の本営が「ウルグ・イフ(ウルグ・エヴの訛り)」と呼ばれていた、というのはジュワイニーの情報。

・グリャム(グラーム)……アラブのアッバス朝(750~1258)における常設の騎馬親衛隊。文字通りの意味は、若者、奴隷。

・ハリーファたちの年代記は、ドーソン『モンゴル帝国史4』pp.76-78.参照。

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2011年4月28日 (木)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(7/7)

 グユク=ハンの死後全ての道が封鎖され、人の多いところであろうと荒野であろうと(命令が)捉えた所に誰もが留まるよう命令が出された。オグル=カイミシの指示により、グユク=ハンの柩は彼の本営のあったイミルへ運ばれた。ソルククタニ=ベギは慣例に従って彼女へ弔辞と衣服、ボフタグ(注24)を送った。バトゥも同じように彼女をいたわり友誼を示した。彼は言った。
「国事は先例に基づき、チンカイと高官らの助言に従ってオグル=カイミシが管理すべきだ、彼らをないがしろにすべきでない、なぜなら私は老人で病弱、足の病のため〔この〕場から動く事ができないからだ、あなた方若い親族は全員がそこで上手く苦境を切り抜け、必要なことに着手せよ」。
しかし、商人との取引を除きそれ以上の事は何一つ行われず、オグル=カイミシは大部分の時間をシャマンたちと相対して過ごし、彼らの妄想と虚構に時間を取られていた、ホジャとナグゥのもとに、母への反発から(自分の)二つの御所が生じた、その結果、一箇所に三人の支配者が現れたのである。他方、皇子たちは自分勝手に証書を書き、命令を公布した。母と息子たち、そのほか(の皇子たち)の間の不一致、矛盾した思わくや指令が原因で事態は無秩序に至った。アミール・チンカイは何をなすべきか知らなかった……誰も彼の言葉や助言を聞かなかった。彼らの親族のうち、ソルククタニ=ベギは教示と忠告を送ったが、ハンの称号が幸ある君主メングゥ=カァンに確立し、社会状勢が正常化するまで、皇子たち(注25)は幼児のように気ままに振る舞い、イィスゥ=メングゥの支持を頼みに放埒な行為をしていた。(ここに)記されたグユク=ハンの(生涯の)出来事に関する物語とは、このようなものである。以上である!

 

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原註:

(注24)プラノ・カルピニとルブルクによって記述されている既婚女性の頭飾り。ルブルクはそれを「ボッカ」と呼んでいる。プラノ・カルピニ「モンゴル人の歴史」とルブルク「東方諸国への旅」(A. マレイン訳サンクトペテルブルグ1911年6,77,181,293頁)、またBretschneider. Mediaeval Researches from Eastern Asiatic Sources, t. I. London, 1888, 53頁参照。訳注:護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』(桃源社)「プラノ-カルピニのジョン修道士の旅行記」p.9、「ルブルクのウィリアム修道士の旅行記」p.150

(注25)文字通りには「息子たち」。

翻訳メモ:

・「グユク=ハンの御代の終わりに関する物語……」は、ドーソン著・佐口透訳『モンゴル帝国史2』pp.257-258、p.266に当たる。

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2011年4月27日 (水)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(6/7)

グユク=ハンの御代の終わりに関する物語、彼の気前の良いこと、浪費と施し。彼のイミルに向けての出撃と(彼の)サマルカンド国境における死去について。

 グユク=ハンのアターベクの任にあったのは、子供のころからキリスト教徒だったカダクであったため、その事は(グユク=ハンの)性格に痕跡を残した。その後、チンカイも実はその一味とわかった。このため、(グユク=ハンは)常に[キリスト教の]司祭と信徒の教義を認めていた(注21)。その噂が広まり、シャム、ルーム、オス、ルースの国々から、彼の都へキリスト教の聖職者たちが集まった。カダクとチンカイが常に同席していたおかげで、イスラムの教えを否定することは容易だったし、キリスト教徒の活動はグユク=ハンの治世に頂点を極め、彼らに反対の声を上げる力のあるムスリムは一人もいなかった。グユク=ハンは、彼の物惜しみしないという評判がその父の物惜しみしないという評判を上回る事を欲したので、この事を過度に行った。カァンの時代に採られたように、周辺の国々から来た商人の商品(注22)に価格を付け、彼が(それを)支払うよう命令した。あるとき(価格が)70,000バリシュを上回ってしまい、その結果、地方のベラトを書(かざるを得なくなった)。様々な国の商品(注23)は山と積み上げられ、その結果、それらを輸送することが若干困難になっていた。高官たちは陛下にこの状況を報告した。彼は、それを保管することは難しく、(それから)いかなる利益も得られない、部隊と(全)出席者に分け与えよ、と言った。何日も何日も全員に分配されたものの、依然としてたくさん残っていたので、彼は(それを)破壊し尽くすよう命令した。

 その年、彼はその地で冬を過ごし、新年が訪れると彼は言った。
「天気は暖かい季節に向かっている、イミルの空気は私の心身に合い、その土地の水は私の病気に効く」。
彼はその地から出発し、威風堂々と西方の諸都市に向かって進んだ。彼が到着したのがどんな村であっても、また道中に出会ったのがどんな人であっても、赤貧の辛酸から解放されるだけのバリシュと服を与えるよう、彼は命令した。ソルククタニ=ベギは、たいへん賢く洞察力があったので、その(出発の)性急さには裏の考えがあるかもしれないと理解した。彼女はひそかに特使をバトゥに(次のように伝えるように)派遣した。
「備えよ、グユク=ハンが大人数の軍隊とともにそちらの国境に向かっているから」。
バトゥは(準備して)国境を守り、彼との戦闘のために軍備を整えた。グユク=ハンがビシバリクまで1週間行程のサマルカンド国境に達した時、(彼を)定められた死の時が襲い、彼にその場所より先に一歩踏み出す時間も与えず、彼は逝去した。彼の統治の期間はおよそ1年であった。イスラムの帝王の御命と国家が長からんことを。

 

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原註:

(注21)「承知していた」。

(注22)「織物」。

(注23)「産物」。

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2011年4月26日 (火)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(5/7)

 慣例に従い皆酒杯を取り、一週間大酒宴をして、(酒盛りをし)終わると、彼は多くの恩恵をハトゥンたち、皇子たち、テュメンの長のアミールたち、千の長たち、百の長たち、十の長たちに分け与えた。それから、彼らは国家の重要事と敵への遠征事業の整理に取りかかった。最初に、ファティマ=ハトゥンを裁き、第二にオッチギンの案件の調査に取りかかって詳しく問いただしたが、この(件の)調査は極めて慎重な扱いを要し、(これは)近しい親族のゆえに誰にでも可能なことではなかった。メングゥ=カァンとオルダが調査を行い、他の者は誰一人として入り込むことを許さなかった。審理の終了後、何人かのアミールが(オッチギンを)死刑に処した。

 カラ=オグルはチャガタイの後継者であって、(チャガタイの)直系の息子であったイィスゥ=メングゥを(ウルスの国事に)参加させなかった。グユク=ハンは彼と有していた友情に従って言った。
「息子が生きているのに、いかに孫を後継者にできようか?」。
そしてチャガタイの地位はイィスゥ=メングゥにふさわしいと認め、このことについて彼の権力を強化した。(カァンの)死後、皇子たちは各々が不適切な行為を行い、地方のベラトを書き、誰にでもパイザを与えたので、(カァンは)このことについて(彼らの)責任を問われたが、それは法令にも習慣にも沿っていなかったからであり、彼らは面目を失って当惑から頭を垂れた。彼らは人々から(彼らが交付した)パイザとヤルリクを取り返し、彼の前に置いた。「己についての書き付けを読め、それは汝にとって汝の精算者として充分である」(注20)。ソルククタニ=ベギと彼女の息子たちは満ち足りた様子で堂々としており、誇らしげであった、なぜなら彼らに対してはヤサの侵犯についての告発がなにもなかったからである。グユク=ハンは他の者へのお言葉の中でそれを例に挙げて彼らを褒め、そして他の者へは軽侮をもって接した。彼は父の法をすべて確認し、カァンのアル=タムガで飾られた各ヤルリクが彼への報告なしに署名されるよう命令した。この後、彼は国々、地方地方に部隊を定めて(それらを)派遣した。スベダイ=バハドゥルとチャガン=ノヨンを彼は無数の部隊とともにヒタイ国境とマンジ周辺に送り、イルヂダイを与えられた部隊とともに彼は西に派遣して、イランの地に駐留している軍隊、タジク人から、(各)十人から二(人)ずつを遠征に出し、異端者たちを手始めに敵対的な地方を征服するよう命令した。イルヂダイへその部隊と人々すべてを任せたが、彼自身も続いて出発する事を決定した。とりわけ、ルーム、グルジア、モスル、アレッポおよびディヤルベクルの国事を彼はその管理に引き渡したが、それはその地のハキームたちが彼以前に徴税の責任を負っていて、誰もこれ(この件)にもはや入り込むことができなかったからである。トゥラキナ=ハトゥンがハキームとしてヒタイに派遣したアブド=アル=ラフマンを彼は処刑し、ヒタイの国家はサーヒブ・ヤラワーチに与えた。トルキスタンとマーワーラーアンナフルを彼はアミール・マスウド=ベクに委ね、ホラーサーン、イラク、アゼルバイジャン、シルワン、ルゥル、ケルマン、グルジスタンとヒンドゥスタンの国はアミール・アルグン=アカに託した。彼らそれぞれの配下だったアミールたち、マリクたちすべてに、彼はヤルリクとパイザを与え、彼らに国事を任せた。ルームの国家(サルタナット)を彼はスルタン・ルクン=アッ=ディーンに与え、彼の兄弟は辞めさせた。女帝の息子のダヴドをもう一人のダヴドに従わせた。バグダードの使節の話に(答えて)彼はハリーファに威嚇と警告を送った。それは、ヂュルマグンの息子(シラムン)が彼にもたらした苦情が原因であり、同じく彼はありとあらゆる乱暴な言葉でアラムートの使節たちがもたらした書簡に返事を書いた。チンカイを彼はかわいがってワジールの職に取り立て、高官全員を元に戻した。以上である!

 

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原註:

(注20)アル=クルアーン17章15節。訳注:アル・クルアーン17章14節「あなたがたの記録を読みなさい。今日こそは、あなた自身が自分の精算者である」

翻訳メモ:

・オッチギンの処置の部分、ドーソンは「この審問はオトチギンの部下の多数の将校たちを処刑することによって終わった。(『モンゴル帝国史2』p.228)」としていてヴェルホフスキーの訳と異なる。それはそもそもラシードの原文がどちらともとれるものだからだそうだ。詳しくは、堀江雅明「テムゲ=オッチギンとその子孫」(東洋史苑 第24・25合併号 昭和60年3月 龍谷大学東洋史学研究会)参照。堀江氏も、皇族を普通のモンゴル人が手に掛けられるはずはないからとドーソンと同じように解釈している。でも、その説明を読めば読むほど、オッチギンって刑死してるよなー、って私は思った。なのでヴェルホフスキーに一票。

・アル=タムガについては、イブン・バットゥータ著・家島彦一訳『大旅行記4』p.241注91参照。

・アブドゥル=ラフマンについては、編集・佐口透『東西文明の交流4 モンゴル帝国と西洋』(平凡社1970年)pp.263-266参照。

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2011年4月25日 (月)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(4/7)

グユク=ハンのハンへの即位についての物語。

 (ウゲデイ=)カァンが(まだ)存命のころ、皇位継承者、代理に自分の三番目の息子で、トゥラキナ=ハトゥンから生まれたクチュクを選んだ。(しかし、)彼はまだカァンの存命中に逝去した。だが、カァンは彼を誰よりも愛していたので、たいへん才があり賢かった彼の長子シラムンを自分の本営で養育し、彼が皇位継承者、(彼の)代理になるだろうと言った。彼が他界したその年、彼はグユク=ハンの召喚状を携えた急使を送った。グユク=ハンは命令に従い、(ダシト=イ・キプチャク遠征から)戻った。彼の到着より先に避けられない運命が到来し、父と息子にお互いお顔をじっくり見て(自分の)両目を喜ばすわずかな時間も与えなかった。グユク=ハンはこの出来事を知らされて、速やかにイミルに到着し、そこから父の本営に向かった。彼の到着とともに(権力への)飽くなき希求はやんだ。

 国家の隅々まで、近い〔地方〕、遠い地方へ、皇子たち、アミールたち、マリクたち、土地台帳編纂者たちを招聘召集する使者が送られたので、彼らは全員服従し、命令に従うために自分の住まいや生まれ故郷から出発した。そして、ヒジュラ暦643年ラビーII月(西暦1245年8月26日~9月23日)にあたる馬の年の春が訪れ、右翼と左翼の皇子やアミールたちが各々自らの部下や随員を伴って到着した。彼らは全員……=ノール(注15)の地に参集した。さる事が原因で彼らに侮辱され、健康が芳しくないことと足の病気を引き合いに出して(クリルタイへの)参加を避けたバトゥを除いて。誰よりも早く到着したのは、盛装であらゆる壮麗さに包まれたソルククタニ=ベギと彼女の息子たちであった。東からはオッチギンが80人の息子たち(注16)と一緒に、イルヂダイもその他の伯父たちもいとこたちも来た。チャガタイの本営からはカラ(=フラグゥ)、イィスゥ(=メングゥ)、ブリ、バイダル、イィスン=ブカおよびチャガタイのその他の息子たち、孫たち、(ヂュチのウルスの)本営からはバトゥが自分の兄弟オルダ、シェイバン、ベルケ、ベルケチャル、タングゥトそしてトゥカ=ティムルを派遣した。皇子たちと一緒にいずれかの陣営にゆかりのある有力なノヨンたち、大アミールたちが来た。ヒタイからはアミールたちと官人たち、トルキスタンとマーワーラーアンナフルからはアミール・マスウド=ベクと彼の同意を得た(注17)それらの国の高官たち、ホラーサーンからはアミール・アルグンがその土地およびイラク、ルゥル、シルワン、アゼルバイジャンの高官と有力な人物たちと一緒に、ルームからはスルタン・ルクン=アッ=ディーン、グルジスタンからは両ダヴド、アレッポからはその地の領主の兄弟、モスルからはスルタン・バドル=アッ=ディーン・ルゥルゥの使節、バグダードのハリーファの首都からは最高位のカーズィ・ファフル=アッ=ディーンとフランク人たち、ファルス、ケルマンの使節たち、アラムートの(支配者)アラー=アッ=ディーンからはクヒスタンのムフタシャム、シハブ=アッ=ディーンとシャムス=アッ=ディーン(が来た)。これらの人々はすべて、各々その国にみあうだけの荷を持ち、贈り物を携えて来た。彼らのためにおよそ二千の天幕が用意された。あまりの人の多さに本営の周辺には滞在可能な場所がなかった。食料と飲料(の価格)は、著しく上昇し(、決して見つけることができなかっ)た。ハン位について、皇子たちとアミールたちは(このように)言った。
「チンギス=ハンがカァンにご指名になったクデンは逝去し(注18)、一方、カァン遺言の(後継者)シラムンは成年に達していないのだから、カァンの長子グユク=ハンに委ねるのが最善であろう」。
(グユク=ハンは)戦勝と軍功をもって知られていたので、トゥラキナ=ハトゥンが彼の側を支持し、アミールたちの大多数は彼女に同意した。議論の末(皆は)彼を(王座に)推戴する事に同意したが、彼は慣習通り断り、(これを)各々の皇子に譲って、病気と身体が丈夫でないことを引き合いに出した。アミールたちの切なる要請の後で彼は言った。
「私の後(のカァン位は)私の一族のものであると認められるのであれば、私は同意しよう」。
全員一致で「汝の一族から、脂や草に包まれた肉の、犬や牡牛が食わない一片でも残っているうちは、我々はハンの称号を他の誰にも渡さないであろう(訳注3)」という書面による宣誓を授けた。シャマンの祈祷を終えてから(注19)、皇子全員が帽子を取り、腰帯をほどいて彼を皇帝の玉座に座らせた。(これが行われたのは)モリン=イル、すなわち馬の年であり、ヒジュラ暦643年ラビーII(の月)(西暦1245年9月24日~10月23日)に当たる。

 

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原註:

(注15)訳注:『モンゴル帝国史2』p.222の注参照。

(注16)「皇子たち」かもしれない

(注17)「と彼と合意した」。

(注18)BI写本によると「すっかり健康というわけではない」

(注19)「カムの儀礼を行うこと」。

翻訳メモ:

・何かを勧められた時いったん断るのは、日本人的に考えても普通なのでスルーしてしまいそうになるが、ラシードがここでわざわざ断っているのは、イラン人的には奇異なことだからなのだろうか。中国の史書にも他の遊牧の民、例えば突厥でもカガンに推戴される時に必ず何度か断る事をわざわざ書いてあるところを見ると、我々にとっては自然なことでも他所から見ると不思議なのかも。

・(訳注3)「脂や草に……」という言い回しは、『元朝秘史』にも「莎草に包みても牛に食われざる、脂肉に包みても犬に食われざる如きの生まるれば……(『秘史』255、岩波下p.180)」というオゴデイがチンギスから後継者に指名された時のセリフ中に出てくる。

・この項(「グユク=ハンのハンへの即位についての物語。」)は、ドーソン著・佐口透訳『モンゴル帝国史2』pp.221-232にあたる。

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2011年4月24日 (日)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(3/7)

 アリーの信奉者で名前をシラとかいう大酒飲みでろくでなくしのサマルカンド人がファティマ=ハトゥンを、彼女がクデンに魔法をかけたせいで彼が病気になったと中傷した。クデンは病気が重くなったので自分の兄弟グユク=ハンに、病気の発作はファティマ=ハトゥンの魔法の結果であり、もし何かあったら(注13)、彼が彼女を処罰するよう(頼むために)急使を送った。これを追うようにクデン死去の知らせが届いた。チンカイが再びその話と(クデンの)依頼を引き出して俎上に載せた。グユク=ハンが登位したとき、最初の仕事としてファティマへの尋問を行い、彼女が棒による拷問によって自白した後で、彼女の(身体の)上と下の穴を縫い合わせ、それをフェルトで包んで水に投げ捨てた。彼女のとりまき(注14)は、死の縁に立っていた。グユク=ハンの死後、アリ・ホヂャ・イミリは、先に述べたアリーの信奉者シラを同じような罪で中傷し、彼がホヂャ=オグルに魔法を教えたと言った。シラも投獄され、拷問とあらゆる困難な要求のために人生に見切りを付けた。彼もまたしてもいない罪を自白し、全く同じように水に投げ捨てられ、彼の妻と子供たちは剣に委ねられた。ハン位の玉座が平穏にメングゥ=カァンの幸運の星のもとで高められた後、ビシバリクの境に封ぜられていたブルンギタイが連れて来られ、その後、彼の側近になっていたアリ・ホヂャを召喚する急使が送られた。誰か他の人が彼を同じような犯罪で告訴したのである。メングゥ=カァンは、彼を左から右から、彼の身体が全部細かいかけらに砕かれるまで打つよう命じた。彼の身にはこのような苦痛がふりかかり、彼の妻と子供たちは奴隷身分に貶められた。

口承詩

もし、汝が(誰かに)悪事をなしたなら、災いを恐れよ。
生ける者すべてに必ずや報いがあるのだから。

 トゥラキナ=ハトゥンとその友にまつわる出来事のうち[ここに]取り上げられたのは、ごく一部である。今や我々はグユク=ハンの即位に着手し、これについて詳細に物語ろう、もし全能の神が思し召すなら。

 

                        ★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

 

原註:

(注13)すなわち、もし彼が死んだら。

(注14)彼女と関係のある人すべて。

翻訳メモ:

・実際のクデン(コデン)の死はグユクの死後なので、この逸話は全くの事実というわけではないようだ。ドーソン『モンゴル帝国史2』p.256、杉山正明「草堂寺闊端太子令旨碑の訳注」「東西文献によるコデン王家の系譜」『モンゴル帝国と大元ウルス』参照。

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2011年4月23日 (土)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(2/7)

 この空位と騒乱の時代、誰もが四方八方に急使を派遣し、自分の所からベラト(注7)と支払命令書(注8)をあちこち送り、誰もがいずれかの陣営とお近づきになろうとあらゆる手段を用いてその(注9)庇護を頼った。常に法の道を(歩み、)毛ほども大法令を犯さなかったソルククタニ=ベギと彼女の息子たちを除いて(皆がこのような有様だった)。一方、トゥラキナ=ハトゥンは、皇子たちとチャガタイの子孫たち、右翼左翼の軍のアミールたち、スルタンたち、マリクたち、高官たち、サドルたちを招聘する急使を世界の東西の国々に派遣し、彼らをクリルタイに招いた。これらの事象が進行している間、闘技場はまだ空いており、グユク=ハンもまだ到着していなかったので(注10)、チンギス=ハンの兄弟、オッチギン=ノヤンは軍事力で無遠慮に王座を奪い取ろうと欲した。この目的のために彼は大軍勢とともにカァンの本営へ進んだ。この出来事に際し、(全軍、全ウルスは)(注)動揺した。トゥラキナ=ハトゥンは(彼に)急使を送り、
「私はあなたの嫁(注12)で、あなたを頼りにしております。この食料と兵装を整えての進軍は何を意味するのです? 全軍、全ウルスが不安を感じております」
と伝えた。そして、常にカァンの傍らにあった彼の息子オタイをメングリ=オグル、孫の……と一緒に、一族の者(全員)と彼の有していた家僕ともどもオッチギンに送り返した。オッチギンは己の企みを後悔して、(誰か)死去(した際に催される)会食の支度という口実を持ち出して取り繕った。この時、グユク=ハンが遠征からイミル河岸の自分の本営へ帰着したとの知らせが届いた。行われたことに対するオッチギンの悔悟の念はより強くなり、彼は自分の場所、自分のユルトへ帰った。結局のところ、およそ三年間ハン位はトゥラキナ=ハトゥンの権力下、保護下にあった。彼女から国家の布告が出、彼女が全ての高官を更迭した。すべてこれ、皇子たちが集参しなかったためにクリルタイが開催されなかったからである。そして、グユク=ハンは母のもとに到着しても、彼は全く国事の運営に取りかからなかった。息子によってハン(位)が確立するまで、従来通りトゥラキナ=ハトゥンが統治を行っていた。2~3か月後にトゥラキナ=ハトゥンは逝去した。

 

                        ★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

 

原註:

(注7)割付証書、地方で支払われなければならない手形。訳注:『モンゴル帝国史』ではバラートと表記されている。『モンゴル帝国史6』p.86~あたりも参照。

(注8)V. バルトリド「アニーのモスク壁上のペルシャ語銘文」25-26頁参照。訳注:バルトリドの論文は、バルトリドの著作集巻4に収録されている「Персидская надпись на стене Анийской мечети Мануче(アニー〔遺跡〕マヌチェ・モスク壁上のペルシャ語銘文)」335頁~336頁に当たるようだ。

(注9)文字通りには「その方に」

(注10)バトゥとの遠征から。

(注11)すなわち、全モンゴル人。

(注12)「(兄・弟の)妻」または「息子の妻、嫁」、文字通りには「私たち、あなたの嫁は」

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2011年4月22日 (金)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第二部(1/7)

第二部
グユク=ハンについての叙述。(彼の即位の)日付と彼の治世に関する物語、彼がハンの位に坐していた時の玉座、妻たち、皇子たちとアミールたちの描写。彼が行った会戦について、彼が収めた勝利についてと彼の即位の前に起こった(事件)についての覚書。

(グユク=ハンの即位前に起こった)事件。

 ウゲデイ=ハンが逝去したとき、彼の長子グユク=ハンはまだ(ダシト=イ・キプチャク)遠征から戻っておらず(注3)、まもなくムカ=ハトゥン(訳注1)も亡くなった。そして高位の息子たちの母だったトラキナ=ハトゥンが巧妙に抜け目なく立ち回って一族の者と話し合うことなく、自らの意志で国家権力を奪取した。彼女はありとあらゆる贈り物で親戚・アミール一同の心を捉え、皆、彼女の側を支持してその指揮下に入ったのだった。チンカイと他のカァンのナイーブたち、ワジールたちは、従来通り(自分の)任についており、地方の総督は本来の任務に(留まっていた)。カァンの時代(トゥラキナ=ハトゥンは)一部の人たちに対して怒りを顕わにし、心の中では(彼らを)嫌っていたので、今や最高権力を持つ主権者になったこの機に(注4)、それぞれに報復してやろうと思った。彼女には、ホラーサーン征服時にトゥース(注5)のメシヘドから捕虜として連れてこられたファティマという名の一人の腹心がいた。彼女はたいへん機敏でできる人物だったので、自分の主の代理人・機密の保守者になった。(国家の)地方の高官たちは彼女の助けを借りて(すべての)重要事を処理した。この友の助言に従い(トゥラキナ=ハトゥンは)カァンの時代に要職に就けられていたアミールや政府高官らを罷免し、その地位に無知な人々を任命した。彼らはカァンの大ワジールだったチンカイを捕まえようともくろんだ。彼は(これに)気づき、逃走してクデンのもとへ行き、彼の庇護を求めた。ファティマはカァンがサーヒブ=ディーワーンの職に任命なさったマフムード・ヤラワーチに遺恨を持っていた。好機をとらえて(トゥラキナ=ハトゥンは)彼の代わりにアブド=アル=ラフマンとかいう人物を任命し、ヤラワーチをヌケルともども逮捕、連行するために、彼(アブド=アル=ラフマン)と一緒に使者として武器職人カルを派遣した。使節たちが到着したとき、ヤラワーチは、陽気にはつらつとして(彼らを)出迎え、目上の者に対する礼をとった。二日間彼は心地よい気配りと下にも置かぬもてなしで彼らを引き留め、
「今日は酒(注6)を飲みましょう、それで(明日の)朝にヤルリクの指示をしっかり聴きましょう」
と言った。その一方、(自らは)密かに脱走に備えた。武器職人カルは、彼のヌケルを捕らえて枷をはめるように命じた。ヤラワーチは彼らに
「私を悪し様に言い、『我々がヤラワーチの密告者だ、いったい我々をあなたはいかなる咎のゆえに捕えて枷をはめるのか? 我々は神にこのような幸運を希ったのだ』とわめきなさい」
と言い含めた。三夜目、ヤラワーチは彼らを飲みに誘い、たらふく飲ませて足腰も立たないようにしてやった。一方、(自身は)何騎かともなってクデンのもとに走り、彼らの悪意から逃れて安息を得た。チンカイとヤラワーチは(自ら)クデンのもとに逃げ場を見つけ出し、彼の好意を受けた。その翌日、武器職人カルにヤラワーチの逃亡が知れ、彼はそのヌケルの監禁を解き、ヤラワーチの足跡をたどって行った。彼はクデンのもとに到着すると、(彼に)ヤラワーチを逮捕・連行せよとの母の命令を告げた。続いて同じ目的を持ち、同じ勧告を携えた他の急使も到着した。クデンは、
「私の母に、雀が鷹の爪から逃れてリンボクの中に隠れたら、それは(そこに)敵の獰猛さから助かる望みを見いだす(訳注2)、彼らも同じようなもの、と言ってください。彼らは私たちの庇護を頼ってきたのですから、彼らを行かせるのは決して高潔な行いではないでしょう、近いうちにクリルタイがあるでしょうから、私は自分と一緒に彼らを連れてそれに行きましょう、そして彼らの罪は(我々の)一族、アミール一同同席の場で審理され、それによって彼らはしかるべき処罰を受けるでしょう」
と答えた。何度か急使が送られたが、クデンはすべて同じ論法を用いた。一方、トルキスタンとマーワーラーアンナフルのハキームだったアミール・マスウード=ベクはこういった事を目にして自分の地方に留まることを善しとせず、バトゥ陛下に臣従した。一方、カラ=オグルとエルゲネ=ハトゥンそのほかのチャガタイの妃たちは、クルタク=イリチをアミール・アルグン=アカを一緒に付けてクルクズを逮捕するためにホラーサーンへ派遣した。アミール・アルグン=アカはクルクズを連れてきて処刑すると、クルクズに替えてホラーサーンに送られた。

 

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原註:

(注3)バトゥのルーシおよび東ヨーロッパ遠征から

(注4)文字通りには「その時」

(注5)10世紀にはヌカン市とタベラン市を含めた全域がトゥースと呼ばれていた。(トゥースの要塞はティムールの死の直後、1405年にはもう再建されていた。それに続く時代、トゥースは普通、メシヘドと並び称される。メシヘドは徐々にその宗教的意義の故に隣接する都市をしのぎ、ホラーサーンの首都となった)(バルトリド「イランの歴史地理概要」70頁)。訳注:バルトリド著作集巻7、p.114

(注6)「サルグゥド」「ホップ」「ワインによる酩酊」(ブダゴフ『トルコ語・タタル語方言比較辞典』巻I、626頁)。

翻訳メモ:

・(訳注1)ウゲデイ(オゴダイ)の妃、ムカ=ハトゥンは、「部族篇」第三章ベクリン部族の項でムカイと書かれている人物。元史巻壱百六表第一の昂(昴)灰二皇后。モゲ皇后のこと。

・(訳注2)リンボク(バラ科サクラ属の常緑小高木。縁に鋭い刺がある)は、例えばイバラのように漠然ととげのある植物を表しているだけかもしれない。この諺は『元朝秘史』にも出ていて、そこでは「幼き小鳥を、はい鷹が叢に追い込まば、叢はそれを救うなり。(『秘史』85:岩波上p.68)」となっている。

・クルクズ(コルグズ)はウィグル人だが、この事件は「グユク=ハン紀」第三部および「部族篇」第三章オングト部族の項にも出ている。更に詳しくはドーソン著・佐口透訳注『モンゴル帝国史4』pp.113-125参照。ドーソンの記事はジュワイニー著『世界征服者の歴史』によっているのでラシードより詳しい。ちなみに、コルクズは、ジュチの息子たちにウィグル文字を教えた人物。

・ここでカラ=オグルと呼ばれているのは、チャガタイ(チャアダイ)の長子ムトゥゲン(モエトゥケン)の子カラ=フレグ。他のところでもたびたびカラ=オグルと書かれている。

・再掲ですがチャアダイ家の系図をば。

Genealogy2

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2011年4月21日 (木)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」第一部

第一部

(グユク=ハンについての叙述。)その血統についての記述、その妃と子供たち、今日まで分枝が続いている孫たちの詳細な一覧。系図は彼の父の紀で作成されている

 グユク=ハンは、ウゲデイ=カァンの長子であり、彼の大后トラキナ=ハトゥンから生まれた。彼にはたくさんの妃と側室がいたが、全ての中で最も位の高い者は、オグル=カイミシだった(注1)
 グユク=ハンは、三人の息子を有し(注2)、最も年長の者の名はホヂャ=オグル、二番目はナクである。彼らは双方ともオグル=カイミシからである。ナグにはチャパトという名の息子がいた。ボラクが河(アム=ダリヤ)を渡ってアバガ=ハンとの戦争を始めたとき、カイドゥはボラクと一緒に、彼の助けとなるようこのチャパトを彼個人の所有である千騎とともに派遣した。ボラクに腹を立て彼は引き返したが、彼がブハラに着いたときボラクの息子ベク=ティムルが彼を捕まえようと企てた。(チャパトは)九騎と逃げ、草原を通ってカイドゥのもとへ去った。恐怖から彼は病気になって逝去した。二番目の息子の名前はフクであって、彼は側室から生まれ、トクマという名の息子を有しており、このトクマには息子がいて、その名もトクマである。今日、彼はハイドゥの息子のチャパルと権力を争っていて命令をきいていない。ホヂャ=オグルの息子たちについては説明されていないが、彼らの系図はウゲデイ=カァンに関する叙述中に作成されている。以上である!

 

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原註:
(注1)元史巻壱百六表第一:斡兀立海迷失(*Ogul Khaymish)。

(注2)元史巻壱百七表第二:1.忽察(*Khucha)。彼の息子たち:1)亦兒監;2)完者也不干(*Uldzhey Ebugen);2.腦忽(*Nakhu);3.禾忽(*Khokhu)は一人の息子を有した:禿魯(*Tukluk)。

翻訳メモ:
・ナク~ナグと不統一だが原文のまま。

・「ウゲデイ=カァン紀」本文中にあるグユク=ハンの息子、孫の説明を表にすると次の通り。

Genealogy3

・「グユク=カン紀」第一部は、だいたい「ウゲデイ=カァン紀」第一部のグユク部分と同じ。ただ、「トクマという名の息子を有しており、このトクマには息子がいて、その名もトクマである。今日、彼はハイドゥの息子のチャパルと権力を争っていて命令をきいていない。」という部分はウゲデイ=カァン紀にはない。なんだか不自然な感じがする箇所。

『五族譜』でもトクマ(トクメ)はホヂャ=オグルの息子となっているらしいが、日本語訳がないので未確認。

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2011年4月20日 (水)

ラシード=アッディーン『集史』「グユク=ハン紀」(目次)

ウゲデイ=カァンの息子、グユク=ハンについての叙述。三部から成る。

第一部。
その血統についての記述、彼の妃と子供たち、今日まで分枝が続いている孫たちの詳細な一覧。系図は彼の父の紀で作成されているので、ここには掲げない。

第二部。
(即位の)日付と彼の治世に関する物語、彼がハンの位に坐していた時の王座、妃たち、皇子たちとアミールたちの描写。彼が行った戦いについて、彼が収めた勝利について、および彼の即位前に起こった(事件)についての覚書。

第三部。
彼の賞讃すべきあり様と性格について。彼の述べた見解と誡めについて。彼の下した良い決定について。彼の治世に起こった事件と出来事で、前の二部に入らず、様々な書物から、および様々な人々から別々に知られたものについて。

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2011年4月19日 (火)

映画「ストーム・ゲート」

2006年ロシア
監督:アンドレイ・マリュコフ
キャスト:
ヴェトロフ(コースチャ)…イヴァン・ジトコフ
ゴルシコフ(コリャン)…イェヴゲーニィ・ポタレンコ
エゴーロフ(ワレーラ)少佐…ミハイル・ポレチェンコフ
シャーフ…ヴャチェスラフ・ラズベガエフ
ドローニン上級中尉…アナトーリィ・パシニン
ガルキン大佐…アンドレイ・クラスコ
ラネフスキー大尉…ミハイル・エフレモフ
パンクラートフ上級中尉…ダニール・ストラホフ

 交通の要所を押さえる山の上のロシア軍の拠点、通称“雷雨の門”ストーム・ゲート…そこには壊れた高浮き彫りとフレスコ画の残る教会の遺跡があり、かつて行われた異教徒との戦いで全滅した竜騎兵の墓標が残る。

 チェチェン紛争の話だと思われるが、そのことははっきり説明されない。新兵のヴェトロフやゴルシコフたちも、ただ「祖国のため」というお題目だけでこの過酷な作戦に投入されており、おそらくこの戦争の意味はわかっていない。ドローニンもガルキン大佐から困難な任務ではないと説明されるし、最初は地元民シャーフから情報を得て、村にやってきた武装組織の司令官を易々と片付け、準備万端整えた地雷原に守られて死傷者も少なく敵を退けることができた。ヴェトロフらも相手の旧式の銃を見てほっとしている。
 しかし、捕虜の話から敵の数が思いのほか多いことがわかり、しかも今の戦闘でこちらの手の内は知られてしまった…。

 ヴェトロフは大学を辞めて自ら志願して軍隊に入った恵まれた家庭の青年。回想シーンで登場人物の背景に少しは触れられるけれども、チェチェン紛争についての意義付けなど背景説明は最小限に抑えてこのストーム・ゲートでの戦闘を中心に据えて描くテレビ映画。
 テレビ映画とは言っても劇場映画以上のリアリティで、戦車(BMP)が生き物のように山道を跳ね回り、攻撃ヘリ(Mi-24)が容赦なく地上の歩兵を爆撃する迫力は凄まじい。砲撃シーンも、うっわー映画の撮影で山のカタチ変えちゃっていいのかよーと余計な心配をしてしまうほどの凄まじさ。そんな血と肉体飛び散る容赦のない迫力でだんだんロシア側に不利に、絶望的になっていく戦況がなんとも痛ましい。

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2011年4月17日 (日)

映画「エリート・フォース 米国×ロシア対テロ連合特殊部隊」

2009年ロシア
監督:ヴラジーミル・パシチニク
キャスト:
アレクセイ(アレックス)…ドミートリィ・ノソフ
トーフィク…イヴァン・ココリン
トリフォン…ドミートリィ・マクシモフ
ハリトン…マクシム・トィニャノフ
ナースチャ…イリーナ・チャシナ

 うわー、久々来たよ。中身見てタイトル付けた~?ってのが。

 原題は漢字で「道」っていうんだが、東洋の神秘すぎて目が点になる。いやホント。是非見てみて。ぐだぐだ具合がすんごいおもしろいから。

 オープニングがどこか東南アジアっぽい大河のほとりの村で、そこで梵僧にしか見えないちりちりお髭のお坊さんに拾われた少年が連れて行かれたのが万里の長城の近くの少林寺。

 はじめ見た時、
「あれ、中身…違う?」
って本当に思った。21世紀の映画とは思えない独特の雰囲気が醸し出されていて、正直、ショウブラザーズかなんかのカンフー映画かと。

 それで最後には、敵役がいまわの際に
「アリガトウ。スバラ…」
って言って死んでいくんだよ!
ナニソレ? 意味不明すぎる!
日本なんてかけらも出てこないのに!(あ、日本刀は出てくるからかけらくらいは出てるか?) 
もちろん、この敵役も元ロシアの特殊部隊員だから日本人じゃないし、こいつの創った麻薬密輸組織のあるのも東南アジアのどっかの島で、日本全然関係ないんだよ。ついでに言うとアメリカもほとんど関係ない。アメリカの空母にちょこっと乗せてもらって麻薬密輸組織のアジトに向かうだけ。

 これぞロシアの面目躍如ってなぐあいの冗長な展開で、ペレストロイカの時代にチンピラだった主人公アレクセイがサンボに出会って親友ができ、親友が死に、軍隊に入って新しい親友(トーフィク)ができ、偶然の出来事で特殊部隊に入れられて、師といえるチェン(←これがオープニングに出てくる少年の大人になった姿らしい)に出会い、一緒に厳しい訓練を受けたはぐれ者四人・アレックス、トーフィク(タタール人)、トリフォン(チェチェン人)、ハリトン(ウクライナ人)で麻薬密輸組織を叩き潰す任務に就かされることになる……というストーリィ。

 サンボや少林寺が出てる割には、見応えのある格闘シーンが少ないなぁ。脈々と受け継がれていく健全な精神、てなところを担っているのはサンボやチェンの教えなんだが、精神論で終わっていて上っ面だけの気がする。

 迫力あるのはむしろ潜入の時の銃撃戦や爆破シーンだ。やっぱロシアはそっちの方が得意だろ~。無理すんな~。

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2011年4月16日 (土)

映画「コールド・プレイ」

2006年ノルウェイ
監督:ロアー・ウートハウグ
キャスト:
エンニケ…イングリッド・ボルゾ・バーダル
モルテン…ロルフ・クリスチャン・ラーセン

 冬の雪山にやって来た5人の若者。リフトもない、人の足跡さえない雪山をスノーボードを持って登っていく。そして積もったまんまの斜面をみんなで滑り降りていくのだが、その中の一人モルテンが転倒して足をぼっきり折ってしまうのだ。
 みんなで携帯をかざして電波を探すが、こんな山奥で電波が入ろうはずもなく、けが人を連れて戻るには車や村までは遠く、どうしようかと周囲を見回していると近くに大きな建物があることに気付く。5人の若者は助けを求めてここを目指すのだった。これが「呪われたホテル」と呼ばれる廃ホテルとも知らずに…。

 フレディやジェイソン、あるいはプレデターさえも人気者になり過ぎちゃってもはやお笑い?!としか思えなくなってしまったホラーファンの皆さん!
 お待たせしました!! ノルウェイ・ホラー史上最凶の殺人鬼登場です!!!

 「FRITT VILT II(邦題ザ・コールデスト)」の第一作。ムダのないスピーディな展開でありながら登場人物相互の関係や性格も描き分けられていて、
「気持ちはわかるけど逃げてー!」
と思わず叫びたくなるほどいつの間にか感情移入していた。シンプルなストーリィだし、大きい音やびっくり箱的な仕掛けで脅かすわけでもないのに最後までひきつけられる。グロくもない。が、涙がにじみ恐怖に声も出ない登場人物たちの表情に恐さ倍増。開放骨折してるのなんかもそうだけど、全体的にリアルな痛さ、恐さ。実際にやらかしそうな怪我、心霊スポットなんかに行ったら本当にいそうな恐い人だけにじわっとくる。

 というか、最初の方の雪山を登ってスノーボードで滑るところ…それ見てるだけでもう背中がぞわーっと寒かったんだけど。ノルウェイの神々しいまでの雪山にはつくづく惚れ惚れするが、これを見ているだけでも寒くなるというのに、殺人鬼の潜む呪われたホテルですよ。身体の芯までゾーっと寒くなる事請け合い。

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2011年4月15日 (金)

映画「名犬リンチンチン」

2007年アメリカ/ブルガリア
監督:ダニー・ラーナー
キャスト:
リー・ダンカン…テイラー・ジョンソン
ニコラウス…ベン・クロス

 第一次大戦末期のフランス。アメリカ人パイロットのリーは、爆撃のあった村の廃墟でジャーマンシェパードの子犬を拾った。部隊で飼って良いことになったものの、リンチンチンと名付けられたこの犬はいたずら者で問題を起こしてばかり。このやんちゃ坊主が将軍にも認められる一人前のアメリカン・ヒーロー(?)となるまでの物語。ハリウッドの人気者「名犬リンチンチン」になるのは、また別のお話…といったようなお話。

 効果音やら、特殊(?)効果やらが今風でなく古いのは、リンチンチンが活躍した時代を意識してのものだろうが、今の若者はリンチンチン知らないだろうなぁ…。「名犬ラッシー」より古いテレビ・映画の名犬ものの草分けじゃないかな。犬もの好きな私も名前しか知らないもんな。
 ジャーマンシェパードだったらこのくらいはするよなぁ、といった程度の演技で見所はあんまりないかもしれないけど、アメリカの映画のはずなのに、何か違和感を感じてよくよく見たら、ブルガリアとの合作だったという。その辺が見所か。

 あとラストで捕虜だったドイツ人が解放されて、
「また一からやり直すよ…」
というセリフはなんだかぐっときた。これは時節柄で映画のできとは関係ないかな。

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