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2012年7月29日 (日)

横浜ユーラシア館企画展「モンゴル~シベリアを歩く」見てきた

Yokohama003横浜ユーラシア文化館の企画展が「モンゴル~シベリアを歩く」と聞き、行ってきました。

 

 

Eurasia01路線を調べて行ったにもかかわらず、関内駅に着いた時に9時過ぎていたのでこりゃあ出遅れた、と思ったけれども、一番乗りだったようですv。

 大規模な展覧会ではないけれどもたいへん興味深く、常設展示(契丹展と連動してるのか遼(契丹)ものがお出迎え)やミュージアムショップをうろうろしつつ12時頃までじっくり見ました。

 オロンスム関連はやっぱり「王傅徳風堂碑」拓本の本物が見れたのがよかった。「謹みて家伝を案ずるに、系沙陀雁門節度の後に出ず」ってこの碑だったっけ?とか思い(←違います「駙馬高唐忠献王碑」でした)つらつらながめてました。

 シベリアでよく見かける体を丸めた猫科の動物の飾金具、顔が正面を向いているのは中国北方からモンゴル高原に特徴的なんだって。じゃあ、ノイン=ウラ(ノヨン=オール)出土の印象的なヤクが顔を正面に向けた飾板も同じ文化圏だからなのかナーとか、猫科って言うけどこれユキヒョウだよな、マヌル猫ではこんなに体が曲がるハズがない(←不当な評価)、とか妄想してました。

参考:マヌル猫(パラスキャット)とは?"Call of the Taiga"マヌル猫特集(YouTubeより)

 あとオラーン=オーシグ遺跡からの馬の骨の出土状況の写真パネルに背骨っぽいものがみえて、ちょうどラシードの『モンゴル史(集史)』でオグズ24部族のうちの幾つかに脊椎の部分の肉が割り当てられている状況(なんのこっちゃ、と思ったら『モンゴル史』部族篇第一章をお一ついかが?←さりげなく宣伝)の説明として、ラドロフ『試論・テュルク語方言辞典』から「古代のテュルクにとってこの部位は名誉な食物と見なされていて、これでハンや高官、貴人をもてなした。シベリアの全てのクルガンで、動物の脊椎骨が死者の食物のように墓穴に置いてあった。ここからこの動物の部位は全てのテュルク系諸部族で名誉な食物と見なされていたと考えられる」と引用されていることの具体例がこれか、とあまりのタイムリーぶり(約一人にとってですが)に興奮しました。

 まぁ、あんまり書いてネタバレになってもしょうがないので軽くさわり程度で。あれもこれもこんな感じで非常におもしろかったです。

 そして、中華街でランチして帰りましたとさ。Chuukagai01

 

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2012年7月24日 (火)

映画「狼の追撃」

狼の追撃

2011年カザフスタン
監督:アカン・サタイェフ
キャスト:
アルセン…ベリク・アイジャノフ
殺し屋…ヴィニー・ジョーンズ
ベリク…アジズ・ベイシェナリエフ
ジャンナ…カルルィガシュ・ムハメドジャノヴァ

 親代わりだった兄を殺され、復讐に狂う男アルセン。彼を追う刑事ベリク。

 正確に言うと、ベリクはなんらかの組織の秘密捜査官なんだろうけど、普通に警察と連携しているし、保険会社のカヴァーを使う必要があるとは思えないんだがなぁ。一般人にも「治安機関の人」ってバレバレだし、かつてのKGBみたいに堂々としてていいじゃん?と思うんだけど、イメージ悪いのかなぁ?

 しかし、そういういかにもな役柄なのに、ベリクが地味顔過ぎて後半になるまで一方の主人公だと気づかなかった(笑)。迂闊すぎるぜ、自分!
 でも、言い訳させてもらうなら、こういう顔の人日本にもいるいる~、俳優でなくて身近に、ってな感じのしょうゆ顔なんだよ。家では息子の宿題を見てやるマイホームパパなほのぼの系で。

 ところが、その愛する家族とくつろいでいる自宅にずかずかと入り込んできたアルセンに
「自首しろ」
と説得する場面ではベリクのいかにも誠実そうな顔が凄みさえ帯びてくる。殺人マシーンと化したアルセンが弱く哀れな男に見えるくらいに…。

 この人すごい…と思ったら、「レッド・ウォリアー」にも出てたんだね(ガルダンツェリンの息子シャリシュの弟)。言われてみれば、ガルダンツェリンと顔を見合わせて「えっ?」というような顔をするシーンは良く覚えてる。あの人だったか。

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2012年7月23日 (月)

映画「アレクサンドリア」

アレクサンドリア

2009年スペイン
監督:アレハンドロ・アメナーバル
キャスト:
ヒュパティア…レイチェル・ワイズ
ダオス…マックス・ミンゲラ
オレステス…オスカー・アイザック
テオン…マイケル・ロンズデール
キュリロス…サミ・サミエ―ル

 4世紀末のアレクサンドリアの街並みのあまりのリアルさにいきなり心をわしづかみにされた。
 少々くたびれて修理もままならないといった建物の風化具合が現在残されているローマの遺跡の雰囲気と非常によく似ている。斜陽のローマ帝国を表現するためにエイジング技術を使っているらしいが、それが本当に人が生活しているかのような生々しさにつながっている。天文学者の話なので、昨今よく見るような衛星からカメラがズームする映像が多用されているが、それでもアレクサンドリアの街並みが本物に見える。これ、えらい大規模なセットだよな。神々の像がキリスト教の暴徒に倒される時も、石の塊の重量感は本物だ。

 実在の人物ヒュパティアを主人公にしているけれども、たぶん、地球の軌道が楕円である、と発見したことはフィクションだろう。彼女の書いたものはキリスト教徒によって一つ残らず焼かれてしまっているなら、今となってはわかりようがないからだが、天文学者で数学者、日々天体を観測し、その軌道を計算していたのなら、こういうことはあったかもな~とは思える。そりゃあ、ああいう時代に地動説をとなえればこうなるよなぁ。
「この娼婦め!」
と罵りながら石打ちにするのはキリスト教ととしてどうかとは思うが…(マグダラのマリア、死んだな)。

 こうやって宗教の非寛容、一般大衆の無知・無理解によって失われた古代の叡智はたくさんあったんだろうなぁ。 最近ソユーズ等の打ち上げを立て続けに見たせいか、今はひょいひょい宇宙に行っちゃうように見えるけど、ここまで来るには無数の人たちの命をかけた戦いがあったんだろうと思うと感慨深いものがある。

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2012年7月21日 (土)

『モンゴル史』部族篇第1章@12日(日)西ま24a

 『モンゴル史(集史)』部族篇第1章、なんとか入稿しました。これでコミックマーケット82群雄」のブース(2012年8月12日(日)西ま24a)には、オフセット印刷された『モンゴル史』が平積みされている事でしょう。

 第1章は過去ペルシャ語から日本語訳が試みられたことがある(私はその論文を見たことない←超稀覯本だよな~)とのことなので、ロシア語読めなくても当時のソ連の研究成果にお手軽に接することができるようにセミョーノフが付けた注部分を全部訳してみました。まぁ、注釈入れたセミョーノフも翻訳者のヘタグーロフも、今回「序に代えて」で利用したロマスケーヴィチも死後50年以上経ってる人なんですが、これを知らずにモンゴルを語れるかってくらい現在でも耳を傾けるに値するおもしろいことが書いてあります。

 とはいえ、第1章は「オグズの章」とか「オグズ説話」などと通称されるように、モンゴルの歴史と言うよりはほとんどテュルクの話です。しかも、ラシードは「ウィグルの歴史書を見た」と言っているにもかかわらず、他の「ウィグルの歴史書を見て書いた」と言っている人たち(例えば『世界征服者の歴史』のジュワイニー)の語るウィグル・イディクト王家の始祖伝説とはまったく違う話をしています。
 これはもちろん意図あっての事で、おそらくラシードが『モンゴル史(集史)』を執筆した目的と係る重要なことに違いありません。何しろ、イスラムの帝王ガーザーンに捧げる大切な書物の書き始めなのですから。
 『モンゴル史(集史)』は、モンゴルの歴史を知るうえでの最重要史料ですが、筆者はモンゴルに仕えている人とはいえ、人がいったんあらゆる資料を取り込んで論理的に再構成して書いている以上、何らかのフィルターがかかってしまうのは避けられません。
 そのフィルター…執筆者の意図するところ、つまりこの歴史書の傾きの度合い・方向を知らずにむやみに利用するのは危険です。

 どんなフィルターがかかっているか…例えば「トルイ家の皇位継承を正当化する」とか「ムスリムに改宗したガーザーンの行動をモンゴルの伝統に反しないと理論づける」とか…これだけの大著を書かせたエネルギーはどこから湧いてきたのか、この第1章でラシードの心の奥を垣間見る事ができるのではないかと思っています。

 さて、一見して『モンゴル史(集史)』部族篇第1章には『オグズナーメ』に酷似した個所があります(テュルク諸部族の名前の起源のところ)。

 そこで、ラシードの見たウィグルの歴史書とは『オグズナーメ』なのではないかと思い、『オグズナーメ』を何度も読みかえしたのですが、日本語訳の底本がなんなのか、それがどんな由来の物か全く書いていないに等しい。成立したのがいつか、口承だったものが文字に書き起こされたのかいつかがわからなければ、『オグズナーメ』が『モンゴル史(集史)』の元ネタだとはいえません。だって、それの方が遅い時代だったら『モンゴル史(集史)』の記述が人づてに伝えられて『オグズナーメ』になった、あるいはすでにあった伝説に混入したかもしれないじゃありませんか(口承の英雄叙事詩などではよくあることです)。

 うっはwww使えねーwwwと苦笑していたところ、自分だって底本の由来書いてないじゃん!!!と気づいたので、今回はロシア語版が何を元にしているかをロマスケーヴィチの序文をもとにまとめてみました。自分自身は『モンゴル史(集史)』の写本そのものを見ていない(見てもペルシャ語読めないけど)ので、変なこと書いてるかもしれませんが、そこはまー日曜歴史家の限界ですんで、しょうがねーなーと、24時間365日を研究に費やしている本職の実力を見せつけてくれると喜んで信奉者になりますのでよろしくお願いします(←誰に言ってる)。

 最後に、固有名詞の綴りは何度かチェックしていますが、自分で自分の間違いにはなかなか気づかなかったりしますので、何かお気づきの点は教えていただけるとうれしいです。あっちゃーと言いながら正誤表差し込むことになりますが。

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